わたしの憲法月間・誰がために憲法はある

10月17日は箕面文化センターで「檻の中のライオン」、24日は豊能町西公民館で服部良一さんの講演「もし憲法が変わったら・日本の未来を考える」、11月3日は扇町公園で「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」、そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)と、憲法についてのイベントが続きました。それぞれの催し物の主催者が友人で、その準備に長い時間を費やし、呼びかけてこられた熱意に思いをはせれば、出不精のわたしでも参加しないわけにはいかないと思いました。

「檻の中のライオン」についてはフェイスブックに掲載しましたように、「檻の中のライオン」の著者・楾(はんどう)大樹さんがイラストを交え、権力を憲法で縛る立憲主義を「権力」=ライオン、「憲法」=檻のたとえ話で解説し、時には落語のような軽快な語り口で話されるので、とても解りやすい講演でした。
ただ、近々の事態は深刻で、たとえば「あいちトリエンナーレ」の企画展だった「表現の不自由展その後」に対して匿名の抗議や脅迫電話が企画展を中止に追い込んだだけでなく、国が負担すべき助成金の不交付という理不尽な事態まで引き起こすことなりました。この事件は匿名の検閲によって「表現の自由」が侵されただけでなく、その先にある戦前にも似た密告社会がすぐそばにまでやってきたことを証明して見せました。
ライオンはすでに「檻」から出てしまっただけでなく、小さな権力をのれん分けされた匿名の小さなライオンが、反対にわたしたちを檻の中に閉じ込めようとする改憲派の政治家たちを支えているのだと思います。

10月24日の豊能町西会館での服部良一さんの講演は、自民党結党以来の「悲願」とする改憲は、ひとえに「押しつけられた憲法」ではない「自主憲法」制定と、「誇れる日本」を取り戻し、歴史を修正・改ざんしようと戦後社会の底辺でうごめき、画策を繰り返してきたものであることを分かりやすく解説・検証してくれました。
お話を聞いて、自民党新憲法草案はかつての天皇や軍部ではなく、「匿名のみんな」という漠然とした国民国家による支配体制のもと、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」という、日本国憲法の三原則を否定するものであるとあらためて思いました。
そして、安倍さんの総裁任期の2021年9月、衆議院議員任期の同年10月をにらみ、これからの一年は新憲法制定を実現するためになりふりかまわず突き進む安倍政権と、それを阻止しようとする力が激突する一年になると話されました。
わたし個人は9条に自衛隊を明記する重大な問題性は理解するものの、「緊急事態条項」がもっとも危険で、わたしたちの日常の隅々までを脅かすものと恐怖を感じます。
ある意味、共謀罪や秘密保護法案、海外派兵を許してしまう安保法制など、憲法を変えなくてもすでに実力行使が進行する中、最後の仕上げが「緊急事態条項」と9条の形骸化なのでしょう。大災害が相次ぎ、自衛隊への好感度が増す一方、非常事態に国会を通さず、行政府がすべての権力を握り、国権を発動できる戒厳令の復活が現実味をましていると痛感します。
直近の天皇即位やオリンピックのエンターテインメント化や、安倍首相が吉本新喜劇に出演するなど、あまり批判もなく吉本と政権との親密さがアピールされ、国家事業であることがおかしいかもしれない「さくらを見る会」やジャニーズ・AKBグループなどの芸能関係とメディアの体制翼賛的な同調圧力と排除圧力が蔓延し、とても息苦しく感じるのはわたしだけでしょうか。

11月3日の扇町公園での「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」は、主催者発表で1万人参加と報じられましたが、その場にいたわたしにはとても1万人の人が参加したとは思えませんでした。外周の道路を右翼の街宣車がまわっていたのでしょうか、「君が代」がむなしく流れていました。
香港や韓国では直接民主主義を貫こうとするのに対して、わたしたちの国では選挙による間接民主主義でしか事態が動かないのが現状です。しかしながら、世界の至るところで痛みを伴いつつも街頭行動が政権をひっくり返すなど、もっとも有効な民主主義である場合があり、かつてわたしたちの国でもそうであったことも事実で、サイレントマジョリィーがぐらっと動くことも必ずあると信じて、5月と11月の扇町公園の集会には必ず参加しようと思いました。

そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)をみました。
この映画は松元ヒロが舞台で演じ続けている1人語り「憲法くん」を女優の渡辺美佐子が演じながら、彼女が中心メンバーとなり、ベテラン女優たちが33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇を追いかけ、日本国憲法とは何かを改めて見つめなおすドキュメンタリー映画です。2019年で幕を閉じる原爆朗読劇をふりかえり、鎮魂の思いを込めて全国各地を回り、公演を続けてきた女優たちのそれぞれの思いが語られます。渡辺美佐子は初恋の人が疎開先の広島で原爆により亡くなっていたことを知り、この原爆朗読劇をはじめたといいます。
また、映画の冒頭とラストに、日本国憲法の大切さを伝えるために日本国憲法を擬人化し、松元ヒロにより20年以上も演じ続けている1人語り「憲法くん」を、渡辺美佐子が、戦争の悲劇が二度とこの国に起こらないよう、魂を込めて演じた様子が映されます。
この映画は監督も出演者もこの映画を見るわたしたちも、迫りくる大きな力に踏みつぶされそうになる危機感に追い立てられ、共に切羽詰まった現実と映画が伴走しているようでした。監督にとって、映画の完成度などはどちらでもよく、むしろその危機感からくる息遣いがスクリーンからあふれ出て、現実が先か映画が先か、竹中労が残した「わたしたちに最後に残る自由は、自由になろうとする自由である」土壇場の現実にまで追い込まれる前に、わたしたちが憲法について、自由について、表現について考えなければならない正念場なのだと教えてくれたように思うのです。
映画が終わり、監督あいさつがありましたが、あいさつとは思えないミニ講演で、機関銃のようにほとばしる言葉にたじたじとなりながらその言葉を受け止め、結局のところわたしたち自身が危ない現実を変えていくために勇気を持たなければと思いました。
監督が「若松孝二の弟子だ」と聞いて、わたしはこの監督・井上淳一氏が若松プロの一員で、先日見に行った「止められるか、俺たちを」の脚本を書いた人だと知り、こんなに熱っぽく語るわけも知りました。
ピンク映画と言われながら、同時代のわたしたちの青春を容赦なく切り刻み、いとおしくすくいあげた若松孝二の数々の映画がよみがえりました。時代に追いこされまいと疾走し、「俺は映画でたたかう」といった若松孝二の言葉が心にしみます。
映画を見終わった後、「ピースマーケット・のせ」でお世話になっている長野隆さんと森川あやこさんのライブを聴くことができました。
今回のライブでは、わたしが大好きなボブ・ディランの「時代はかわる」を独自の訳で歌ってくれました。この歌はわたしが高校を卒業してから足繁く通った、大阪の東通り商店街にあった「オウ・ゴウゴウ」という飲み屋兼ライブハウスでいつもかかっていました。
50年も前の曲なのにまったく色あせない歌ですが、長野さんたちの日本語訳でよみがえると、根拠もなく勇気が湧いてきました。

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