憲法と「子どもたちの民主主義」

4月29日、「憲法カフェ・能勢」が開かれます。
まだまだできあがったばかりで、呼びかける力が及びませんが、わたしが育った「戦後」からはるか遠くに来た今が、「戦前」になることがないように、またそんなに大きな紛争はないにしても、国家の命令によって日本人が犠牲になったり、日本人が他国の人々をきずつけてしまうことにならないために、小さな声を上げ、小さな声に耳を傾けたいと思います。
みなさんへのよびかけの代わりに、以前に書いた文章を掲載します。

それからぼくたちは静かにキスをした
窓の外で世界はいま深くきずついてしまった
その悲鳴がぼくたちの部屋にとどく

1947年、ぼくたちが生まれた年
日本国憲法が生まれた
ぼくたちがまだ小学生だったころ
街は戦争の傷跡を生々しく残していた
他人などかまっていられないはずの隣近所は
「こんなときはおたがいさまや」と
父親のいないぼくにも手をさしのべてくれた
農繁期になると、家のしごとがいそがしくて
学校に来ないともだちもいた
学校の先生の言うことと
親の言うこととどっちを信じるねん
親たちはまだ学校も民主主義も信じていなかった
ぼくたちこどもはちがっていた
「あなたがたは自由です。それはたいせつな権利です」
と教えてくれた学校にわくわくした
新しいニュースは学校がいち早く教えてくれた
それがミルクやパンを日本市場に進めるための
アメリカの食料会社の作戦だったこともあった
ドッジボールとハーモニカ
セミの合唱とNHKのど自慢
高校野球と真空管ラジオ
鉄条網と原っぱと布製グローブ
伝説の民主主義は圧倒的な明るさで
貧乏なこどもたちの未来を照らしていた

しばらくしてぼくたちは、中学生になった
1960年6月15日、日米安保条約をめぐって
全国で580万人のひとびとがデモをした
学生たちが国会突入をはかり警察官と衝突し
東大生・樺美智子さんが死んだ
そして学校はいつのまにか
ぼくたちに自由の大切さを教えなくなった
「権利よりも責任を、自由よりは公共を」
街はゆたかになろうとしていたが、
ぼくはすこしずつ学校がきらいになっていった

高校を卒業して、ふと気づいたら
いつのころからか、憲法も平和も
守らなければならないものになっていた
憲法は当時のアメリカに押し付けられたものだし、
軍隊を持たない平和なんてありえない
と、考えるひとたちもたしかにいた
そのひとたちと向かい合うとき、
憲法と平和を守るというだけで
わかりあえるはずはなかったのだと思う。
1947年の憲法はけっして守るものではなかった
それは人類が見つづける最後のせつない夢
理不尽な暴力で死んでいったひとびとのたましいが
すぐあとに生まれたぼくたちに残した
最後のせつない手紙だったのだ
ぼくたちはもう子どもではない
街は70年安保闘争へとつながるデモがくりかえされていた。

1995年の阪神大震災、地下鉄サリン事件
2001年9月11日、そしてまた、そしてと
世界の悲鳴はすでに限界点をこえている
1947年の民主主義では、世界の平和をつくれない
と、多くの人々が思うようになった
けれども、ぼくたちはもうひとつの真実を知っている
世界の平和は、武力でもまたつくれないのだ
ひとは武器を持つこともできるが、
楽器を持つこともできるのだ
ひとは銃弾を胸に撃つこともできるが、
歌で心を打つこともまたできるのだ
ひとは手で殴ることもできるが、
手をつなぐこともできるのだ
ひとは罵倒することもできるが、
キスすることもできるのだ
ひとはあきらめることもできるが
ゆめをみることもできるのだ
ひとはさべつすることもできるが
ともに生きることもできるのだ

キスすることは、いのちの重さにふれること
世界のかなしみにふれること
死んでいったひとびとのゆめにふれること
キスすることは、共に生きる勇気にふれること
世界のかがやきにふれること
いまを生きるあなたのゆめにふれること

夜があけるまえの、もっとも深い漆黒が
ぼくたちのからだとこころをつつむ
ぼくたちはいま、傷ついた世界に
たったひとつの地平線を描くため
ふたつのくちびるをつなぐ

平和にキス!

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