第5回憲法カフェ・能勢から、民主主義ってなんだ?

10月31日、第5回憲法カフェ・能勢の集まりを浄るりシアターの和室で開きました。
9月19日の未明に安保法制が参議院で可決され、おさまると見えた反対運動はたしかに規模は少しずつ小さくなっているところもありますが、今回の国民的議論によって憲法は国民をしばるものではなく時の権力の暴走をしばり、国民を守るものであるという「憲法の立憲主義」が数多くの人々にあらためて確認されたことと、国の重要な政策の実行や法律の決定が選挙によって選ばれた国会議員の多数決で決められるという、民主主義にとって当たり前とされていることへの疑問から、「民主主義とは何か」という根本的な問いかけが噴出しています。
その中で開かれた憲法カフェ・能勢ですが、あいかわらず参加者が少なく、新聞折り込みとも協力していただいている施設やお店へのチラシ配布、それと口コミではこれ以上の広がりは難しいのかも知れません。参加者を増すには結局口コミがもっとも有効で、チラシは参加者以外にわたしたちの思いを伝える手段としてよりわかりやすく充実したものにしていくしかないかなと思います。

さて、今回の憲法カフェは安保法制が可決されたことを受けて、この法案を見直す運動を今後どのようにすすめて行けばよいのか、そして多数決で決まってしまう国会運営からすれば次の参議院選挙が大きな節目になるだろうこと、また大阪的には近々に迫ってきた大阪府知事選挙、大阪市長選挙がどうなるのかなど、どうしても選挙の方に話題が移りそうになるのですが、今回の憲法カフェではおさらいの意味もあり遠地弁護士から安保法制が施工されることになると自衛隊を中心にどう変わるのかをくわしく説明していただきました。
相変わらずとても難しい内容になってしまいますが、何度も学習しておき、あってはならない武力攻撃事態における個別的自衛権による直接攻撃はさておき、自衛隊の出動が「存立危機事態」による集団的自衛権の行使なのか、重要影響事態によるものなのか、国際平和支援によるものなのか、さらには国連が直接関与しない平和維持活動にも参加できるようになったPKO(国連平和維持活動)によるものなのかを知らなければならないと思います。ただ、その時、「特定秘密保護」によってあきらかにされない場合が多々あると考えられることから、結局は国会の内外で今まさに起こっている事態をすみやかにガラス張りに報告し、それにどう対処すべきかを考える市民、国民の声を政府に届ける運動がより必要になるのではないでしょうか。その手立てが選挙だけではとてもじゃないですがいつ起こるかも知れない不測の事態に対応できない以上、どこかで「多数決主義」ではなく国民的な対話の場をいくつも何度も国会自体が用意する、いわば国会の出前が必要なのではないかと思います。

ひととおり、安保法制について遠地弁護士の話を聞いた後、今回のメインテーマである「民主主義とは何か」について自由討論をしました。ちなみにこの問いはSEALDsの若い人たちが彼女たち彼たちの街頭行動で問いかける言葉で、ほんとうはデモや集会などで訴えやスローガンを繰り返し唱和するシュプレヒコールではなく、「コール&レスポンス」、つまり問いかけ、それに答えるような掛け合いのことばとして考えたと言います。「民主主義ってなんだ」と問いかけ、「なんだ」と問い返し、そのうちに「これだ」と応えるというあたりは、ヒップポップをベースにしたライブ感があり、説得力のある言葉だと私は思います。
実際、今回の安保法制の論議で逆説的ですが、憲法の立憲主義と、何世代にまで禍根を残すかも知れない重要法案に対して自分の政治生命をかけて考え、政治家としてだけでなくひとりの人間として思いまどうひとりひとりの議員ではなく、単なる多数決の中のひとつの数字としか役割を果たせない「民主主義」はほんとうの民主主義なのか、あるいは民主主義そのものが大きな欠点を持っているのか、という根本的な問題提起をしてくれたのは安倍政権の功績かも知れません。
60年安保、70年安保から長い間沈黙してきた若い人たちによる「民主主義ってなんだ」という問いかけは、戦後すぐに生まれ、日本国憲法をゆりかごにして育ったわたしの心にグサッと突き刺さる言葉でした。
そして、日本国憲法と民主主義のゆりかごに安住するのではなく、世代や国境を越えてひとりひとりの小さな力でも小さな声でもちいさな願いでもいいから、これから民主主義をたがやし、育てていくために行動して行こうと思うのです。

「日本は民主主義国家か?」という設問に、参加された方々からは「制度的に民主主義国家だが、とくに最近の政治を見ているとこれが民主主義なのか」、「もし多数決が民主主義なら少数意見は黙殺されるだけではないか」、「ほんとうは多様な考えを持つさまざまなひとたちによって社会はなりたっているのだから、多数決という最後の手段を使わないでいかにいろいろな考えを受け入れた合意を導き出し、実行するのが民主主義ではないのか」、「選挙によって選ばれた議員による民主主義だけではなく、デモなどの街頭行動もまた民主主義だと思う」、「政党政治と小選挙区制の在り方をみなおすべきではないか」など少人数ながら参加者がほぼ全員が自分の意見や思いを次々と話してくれました。

「おおさか維新の会」を立ち上げた大阪市長・橋下徹さんは「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。」(2015年8月31日のツイツター 14:28)と言いました。
この言葉を聞いて、60年安保の時、デモ隊の一部が国会構内に乱入するまでにいたった国会周辺の反対運動に対して「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った岸信介氏の名言(迷言?)思い出した方はわたしだけではないでしょう。
機を見るに敏で、いつも世の中がどんなことを考えているのかに敏感で、それを確かめるためにあざといことを発言し、その反応からより激しくターゲットを攻めたり、反対に少しずつ調整し、時にはその発言がなかったかのようにしてしまう天才である彼は、それでも本音の気持ちを吐露していて興味深い発言でした。
岸信介氏の言葉はまだ子どもだったので後に知ったのですが、彼が「国民のごく一部のデモをする国民」と、同じ時間に銀座や後楽園球場にいるはるかに多い国民とを並べ、「声なき声」(サイレント・マジョリティ)が安保条約改定に賛成していると暗に述べる時、権力を持っている人間の傲慢さが露呈しているとわたしは思いました。なぜなら、サイレント・マジョリティはサイレント・マイノリティと共存していることを見ようとしないからです。
今回の橋下さんの発言も、サザンのコンサートに参加した国民にとても失礼な発言だと思います。もう少し深刻な例えをすれば、自分のターゲットを「ばか、あほ」とののしる時、そのターゲットに対してではなく、「あほ、ばか」という差別語をいつもかぶせられ、ひきあいに出される障害者を著しく傷つけているのと同じように、今回引き合いにだしたサザンのコンサートに参加する市民が多様な人々のあつまりで、「サイレント・マジョリティ」だけでなく「サイレント・マイノリティ」を併せ持ち、日本の将来像を決める重要な問題に無関心であるとはわたしは思いません。
橋下さんや安倍さんの民主主義が力技によって多数決を勝ち取ることに腐心し、多数決の中の「マイノリティ」(少数意見)をくみ取り、さらにはマイノリティへの恐れまでも感じるほんとうの民主主義の方向とは正反対であると思います。
橋下さんの場合、自分の経験から「自由」と「権利」が「自助努力」によって支えられていて、能力を発揮できる機会の均等が平等な社会であるという思念にとりつかれているように思います。けれども子どもの貧困率が16パーセントに迫り、シングルの親の過程では子どもの貧困率が60%にも及び、自殺する人が3万人もいる現実はピケティの格差論を持ち出すまでもなく、夢と希望にあふれた社会とは言い難いのではないでしょうか。単に機会の均等を保障すればあとは「能力」のある者は富み、「能力」のない者は努力が足りないと切り捨ててしまうのではなく、「能力」も多様なものであり、社会がその多様性を受け入れ、どれだけたくさんの個性と「能力」が補い合い、どれだけたくさんのひとがこの社会のかけがえのない担い手として生きることができ、ひとりでも多く子どもたちが貧困から抜け出せる社会のあり方をつくりだすことが民主的でだれにとっても豊かな社会なのではないでしょうか。
どんなに理想論とか夢物語とか批判を受けても、「競争よりも助け合う政治経済」をシステムとして、傷つけ傷つけられることのない平和な社会をめざすことが、いつでも武力を使いますよと他者に脅しをかけることよりも、豊かで自然を破壊せず、世界の人々がつながって行く真の平和な国際社会であるとわたしは思います。

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