第6回憲法カフェ・能勢「民主主義と辺野古」にご参加をお待ちしています。

2月21日(日)午後11時より、「第6回憲法カフェ・能勢」を開きます。
「憲法カフェ・能勢」は里山の地で、日々の暮しから憲法を学ぼうと地道な活動をつづけてきました。昨年の春に始まり、すでに6回を数えます。今のところ参加者も少なく、普通なら続ける意味があるのかと思ってしまうこともあるはずなんですが、主宰のTさんの熱い思いと尽力により、ここまで進めることができました。
わたしたちは毎回、能勢町内の新聞折り込みでお知らせする他、能勢町内のいろいろなお店にチラシを置かせてもらったりしているのですが、「憲法カフエ」というと偏ったグループのように見られることも多く、「心苦しいですが」と断られてしまうこともあります。そのことひとつをとっても、今の世の中の「ふつう」の方がずいぶんと偏り、やわらかさをなくしつつあることを痛感します。それでも、回を重ねるごとにその熱心さを認めてくれて、チラシを置かしてもらうお店も少しずつですが増えてきました。
後はフェイスブックによる告知がかなり有効で、わたしはまだ初心者ですが少しずつ勉強し、このブログと合わせて情報を伝えて行こうと思います。
わたしはアナログの時代から、「チラシは来ない人のために配る」を信条にしていて、ひとりの人が参加してくれたら、参加しようかなと迷っている人や他の用事があって来れなかった人が10人はいるという、根拠のない楽観性でやってきました。そんなわけで、今はまだ参加者が少ないけれど、ひとりふたりと思いを共にできる人と出会うことを楽しみにしています。

今回のテーマは「民主主義と辺野古」で、沖縄の米軍基地移転をめぐり辺野古と沖縄の問題をみんなで考えようと企画したものです。
昨年は安保法制に反対する市民や学者による集会やデモで騒然とする中、9月にこの法案が可決しました。橋本前大阪市長は、「デモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ。しかも今回の国会前の安保反対のデモ。たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ。」と言いました。安倍さんも橋下さんも、デモや集会などの街頭行動によって国家の意思が決定されることは民主主義を否定する暴力だと言いたいのでしょう。しかしながら、彼らの言う民主主義もまた多数決という暴力でしかないこともまた確かなことではないでしょうか。
もともとまだ意思決定の権限を持たない子どもたちの人生を決めてしまう社会の仕組みを、今その権限を持つ大人が決めていいのかという根源的な矛盾をかかえながら、民主主義は多数決という最後の手段を持ちながらも少数意見をどれだけくみ取れるのかと思いまどうことで、意思決定の装置でありえたのではないでしょうか。その意味において、安倍さんや橋下さんは民主主義が多数決によるもうひとつの暴力装置へと変質する危うさを教えてくれたのだと思います。
わたしたち「憲法カフェ・能勢」は、戦後70年、わたしたちの暮しや生き方や考え方や他者へのまなざしを支えてきたと思う憲法が変わるかも知れない政治状況の中にいて、ほんとうに憲法は変わらなければいけないのか、それとも憲法を変えなければいけないほど日本社会が取り返しのつかない大きなまちがいを犯そうとしているのか、日本国憲法は70年前、日本と世界にどんな夢を見ていたのか、その夢はまちがっていたのか、それともその夢をわたしたちはどこに捨ててしまったのか…。
里山に抱かれた緑深い能勢の地をこよなく愛する人たちとともに、わたしたちは前に進んだり後ろに下がったり、右に行ったり左によろけたりしながら、「明日の自由を守る若手弁護士の会」の遠地靖志弁護士の粘りづよいファシリテートに支えられながら、憲法のこと、民主主義のことを学び、能勢の暮しを通じてわたしたちが考えることを話し合ってきました。
昨年の9月26日、能勢町の浄瑠璃シアターの小ホールで、知花昌一さんの講演会がありました。知花昌一さんといえば反戦地主の闘いや、1987年沖縄国体での日の丸引きおろし・焼き捨て事件などで有名な反戦・平和運動家で、現在は真宗大谷派の僧侶としても活動されている方です。
知花昌一さんの話でまず心に残ったのは、「辺野古新基地建設は第5の琉球処分」と話されたことでした。一度目は琉球王国廃止・薩摩支配~沖縄県設置、二度目は沖縄戦、三度目はサンフランシスコ講和条約、四度目は本土復帰と話をつづけられました。
知花さんのお話を聞きながら、実は日本の戦後民主主義が沖縄の犠牲のもとにつくられた砂上の楼閣と言っても過言ではないことを改めて教えてもらいました。
知花さんは「本州では沖縄の基地は安全保障という政治問題とされているが、沖縄では人権問題ととらえ、訴えている」と話されました。
古くは薩摩の琉球処分、そして本土防衛の犠牲になった沖縄戦、戦後の占領政策をへて日本が主権回復したとされる1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約によって、沖縄はアメリカを唯一の施政権者とする信託統治制度の下におかれました。当初は一部では日本の支配から解放され、独立する契機ととらえるひとたちもいたと言いますが、その後の沖縄は本州の基地が少なくなっていくことに反比例するように基地が増えていきました。(現在、在日アメリカ軍専用施設の73.8%が、日本の国土の0.6%の面積しかない沖縄に存在しています。)
しかも、基地にされた土地は本州に比べて私有の農地が多く、土地を奪われることは職を失うことでありました。基地によって経済が潤ってきたではないかと言われますが、最近では沖縄県民の総所得に占める基地関係収入の割合は5%過ぎず、基地が沖縄経済を圧迫していると言う人もいます。
そして、1972年5月15日の「本土復帰」。「本土並み復帰」と言う声ばかりが聞こえていましたが、本土並みどころか基地はそのまま残し、アメリカの軍事戦略の重要拠点になっていきました。
この70年間で、アメリカ軍基地に関連する多くの事件・事故が起こり、そのたびに加害者のアメリカ兵が責を負うことも裁かれることもなく、沖縄のひとびとの人権はことごとく奪われてきました。一方、思いやり予算として施設にかかわる費用は日本政府が負担しつづけてきました。沖縄が法治国家・日本に所属する一地域であるとはとうてい言えず、信託統治の時代から本土復帰後現在に至るまで理不尽なことが70年も放置され、増殖されてきたことをあらためて痛感します。
沖縄県の翁長雄志知事の演説に対して、日本政府は普天間飛行場の辺野古移設は日米間の国防外交政策であると反論しましたが、沖縄で昔もいまも起こっている人権侵害や差別、そして環境問題にしっかりと向き合えば、沖縄の基地の問題は政治的な問題ではなく人権問題だと世界にアピールした沖縄県の翁長雄志知事の行動は画期的で、その対象はわたしたち日本人すべてでもあると思いました。
もうひとつ印象的だったのが、1972年の本土復帰運動の時、知花さんをはじめたくさんのひとびとが日の丸を掲げ、平和憲法のもとで奇跡の復興を遂げた日本社会に復帰することは長年の苦闘から解放され、自分のこと、自分の地域のことを自分で解決する権利を得ることと信じたという話でした。
日本にもアメリカにもあたりまえの切ない夢を踏みにじられてきた沖縄…。短い時間でしたが知花さんのお話を聞き、いままで沖縄のほんとうのことを知らなかっただけでなく、知ろうとしてこなかった自分が恥ずかしくなりました。
知花さんの話を聞き終え、沖縄の土地も沖縄の人々の切ない願いも奪い、無数の屍とたくさんの犠牲の上に、わたしの生きて来た戦後民主主義があったのだと痛感しました。一方で、1972年に知花さんのひとみに輝いて見えた日本社会のありようは、たしかに沖縄を排除して築き上げたものだったのかも知れないし、その輝きはまがい物であったのかもしれません。だからこそ今、もう一度70年前の瓦礫の中にあったはずの希望と夢を取戻し、民主主義と世界の宝・日本国憲法のもとで、ひとを傷つけることもひとに傷つけられることもなくしていく努力をつづけたい。そしてだれもが安心してくらし、平和で助け合える日本と世界をつくるために、親鸞ではありませんが隣のひとと手をつないでいこうと思いました。

そんな思いから、今回の「憲法カフェ・能勢」は日本の民主主義と憲法の行方がかかっている辺野古と沖縄を能勢に住むわたしたちの切実な問題として考える会にしたいと思いました。
午前の部はジュゴン保護キャンペーンセンターの松島洋介さんから辺野古のお話を聞き、ランチタイムにはウチナースバ(沖縄そば・650円)を用意しています。そして、午後の部は遠地靖志さんから辺野古の訴訟から日本の裁判所や裁判制度の問題について学び、その後参加者みんなで話し合えたらと願っています。
みなさんのご参加をよろしくお願いします。

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