懐かしい荒野にそそり立つエロチックなピアノ・小島良喜のソロライブ

5月のピースマーケット本体のチラシと、夕方のスペシャルコンサート「友部正人」のチラシがほぼ完成したころに、能勢町でただひとりの女性議員・大平きよえさんの選挙にむけた議員活動ニュース&リーフレットのチラシづくりと、怒涛のような毎日で、ブログ記事のための時間がつくれず、少し開店休業のようになってしまいました。
それもようやく終わりましたので、少しずつ復活しようと思います。このブログは島津亜矢さんのファンの方々に支えられているところが大いにあるのですが、亜矢さん関連の記事ばかりとも行かず、これから実際の準備に入るイベント、コンサート、選挙にかかわることも書いていきますので、興味を持たれた方はそちらの方もお読みいただければ幸いです。
忙しくしている間にも、2月4日は約2年ぶりに小島良喜のライブに友だち3人と行きました。今回のライブはソロライブで、ソロアルバムを出した記念ライブの意味もあったようです。
この日は箕面の友人3人と出かけました。実をいうと開演前に近所の居酒屋で食べて飲んでおくとライブ会場での飲食よりも安くつくので、この日も早めに出かけ、近所の居酒屋で飲んでから会場に入りました。ほんとうに「セコイ」作戦で自分でも悲しくなりますが、なにぶんチャージ代とわたしの場合は帰りのバスもすでになく、能勢電の山下駅からタクシーで帰らなければならず、始末しても1万円はついてしまうのです。
それはさておき、2年ぶりの小島良喜は、ほんとうに変わったなと思いました。昨年から始めたフェイスブックで彼の情報はよくわかり、また演奏も少しは聴いていますが、ライブで2、3時間彼のピアノに浸るとまったく違った感動があります。

専門的な音楽のことはまったくわからないので、演奏のどこかが変わったとか、テクニックや表現力なども島津亜矢やSIHOのようなボーカリストについてならもう少し説明できるのですが、なにぶんピアノ演奏の場合、しかも今回のように小島良喜のソロとなると感じたことをうまく説明できません。
ただ、素人の表現で書けば、いままで以上に小島良喜がピアノととても幸せな関係になったということでしょうか。そういえば「コジカナツル」時代に京都の「RAG」で少し話をする機会があり、その時に初めて彼と出会った1990年の「桑名正博」コンサートの仕込みと打ち合わせの間ずっと彼が「上を向いて歩こう」を演奏していたという話をすると、「それは覚えてないけれど、ピアノはそれぞれ違った人格を持っていてね。まずはピアノと仲良くならないと弾けないんだ」。それは専門的な言葉でいえば、それぞれのピアノの音やタッチの違いを知ることと、そのピアノに一番合った音響を探るためなのだろうと思います。
ちなみに、アバウトで気取らず、「いい加減」に思える彼のトークからは想像できないこととして、いつも演奏の途中休憩の間に必ずもう一度ピアノ調律をするデリケートさと音に対する厳しさを持っていて、彼がどれだけピアノと仲良くなることを大切にしているかがわかります。2年ぶりにしかもソロのライブを聴き、あらためてより深くいとおしくよりエロチックにピアノに触れるようになっていました。

少し誤解を招くかも知れませんが、ピアノをエロチックに感じるのは、わたしのピアノ体験から来る妄想なのかも知れません。
わたしが小学生の頃、同級生の女の子の家に何人かで遊びに行ったことがありました。私の母は今でいうシングルマザーで、妻子ある父との間に生まれた私と兄を育てるためにだけに生きようと父とも別れ、生活保護をとったらと勧めてくれた民生委員の好意を断り、大衆食堂を切り盛りしながら赤貧の中で私と兄を高校にまで行かせてくれました。
貧乏な家の子である私は、裕福なその女の子の家の居間にあったピアノにびっくりしました。ピアノを知らないわけではありませんでしたが、豪邸と言える家の居間にパーソナルにあるピアノを見るのは初めてで、窓から差し込む光を背に黒光りするピアノが、どこかエロチックで胸騒ぎのする生物のように見えたのでした。
それ以後、わたしにとってピアノは触れてはいけないエロチックな女体で、ピアノが欲望を象徴するアイコンとして登場する映画がいわゆるポルノ映画よりもエロチックに感じたものでした。
小島良喜のピアノは、そんな私の子ども時代の性的妄想を呼び起こし、とくに今回のようにソロのライブでは、かつてのように時には暴力的なたたかいや革命への激しい熱情の海に挑むような演奏ではなく、とても静かな海で自分の愛する者と優しくつながり、いとおしく触れ合いながら、心の奥に隠してきた激しい熱情を高めあい、ピアノも誰も傷つけず、またピアノにも誰にも傷つけられることのない世界にわたしたちをいざなってくれるようでした。
それを言い換えることになるのかわからないけれど、かつてブルトンが言った絶対の愛と呼んでいいのかも知れません。お互いの心とからだに隙間ができないように抱き合い求めあい、武器ではなく楽器(ピアノ)で至高の愛の扉をゆっくりと開けたその向こうにあるものは、人間が誕生した時からいつもそばにいてわたしたちを励まし、ここではないどこかをいつも教えてくれた音楽そのものなのでしょう。エロチックで静かで寛容ですべての欲望と絶望と裏切りをゆるし、半島が海をへだてて離れてしまったもう一つの半島に恋し続けているように、その夜の小島良喜のピアノソロを聴きながら、わたしもまた貧乏でしたが決して不幸ではなかった60年前の子ども時代の懐かしい荒野にそそりたつエロチックなピアノへの激しい恋心を思い出したのでした。

ピアニストを撃て
少女の母親が死んだ日もあの曲がきこえました
少女の父親が死んだ日もあの曲がきこえました
少女が学校で叱られた日もあの曲がきこえました
少女が少年に心をうちあけて わらわれた日もあの曲がきこえました
少女はピアニストを撃てとつぶやいて
じぶんの耳にピストルをあてました
「ピアニストを撃て」 寺山修司

小島良喜 Yoshinobu Kojima ピアノソロ My Foolish Heart

コジカナヤマ(島英夫). Truth In Your Eyes .Live at ミスターケリーズ 2014.1/28

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