国葬と小説「海辺のカフカ」の入り口の石と家族の肖像

戦後社会はひとりひとりが拍手し合う社会

 安倍元首相の国葬が迫る中、国葬反対の声が増えています。岸田首相が惨劇の一週間後に「決断」した時には、こんな状況に陥るとは思ってもいなかったことでしょう。
 わたしはコロナ感染症のまん延とウクライナ戦争で見逃された感があるものの、成功したとは言えない経済政策・アベノミクスの下、2回の消費税引き上げ、新自由主義経済による公共サービスの民営化と広がる非正規雇用によって、自己責任を強要される中で子どもの貧困や自殺の増加、さらには感染症対策にも脆く壊れやすい社会になってしまったのではないかと思います。
 そしてアメリカの世界戦略に組み込まれた防衛力の増強などアメリカに依存・加担する政治が中国との緊張を高め、北朝鮮、韓国や周辺各国との対話・外交の道が狭められ、武力による綱渡りのような均衡を現実主義と称して憲法「改正」もいとわないわたしたちの社会は、戦後もっとも危険なところに立っていると思います。
 国葬に反対する理由のひとつに、16.5億円とされる葬儀費用があります。コロナ感染症で人によっては家族にも友人にも見送られることもなく亡くなられた人が数えきれない中で、ひとりの人の死が国葬に値するものなのか疑問に思われる方もたくさんおられることでしょう。
 国葬に費やすお金を生きていくのが精いっぱいのひとたちや薄氷を踏む経営を強いられる零細企業、未来をになう子どもたちの教育など今必要とされる施策に使うべきではないのか、日本の防衛にどれだけ役に立つのかわかないともいわれる予算倍増の防衛費も含めて、困難な暮らしを強いられるひとびとにこそ、たいせつなお金を使うべきだと思います。
 くしくもイギリスのエリザベス女王の国葬に伴い、イギリス国民をはじめ世界の人々が弔意を表す様子が連日報道されていますが、荘厳な儀式を見ていると、その奥にあるかつての覇権国家・大英帝国の失われし栄光の亡霊を見ているようでもあります。
 エリザべス女王の死を悼むイギリスの国葬に比べて、安倍晋三氏の追悼儀式が国葬に値するかという議論よりも、わたしはそもそも国葬そのものに疑問を持ちます。わたしはどんなに砂上の楼閣と言われようと、戦後民主主義と日本国憲法の申し子として、人の死の重さはひとりひとり違うもので、たったひとりの人の死のためだけに国全体が弔意を儀式化することに抵抗があるのです。
 寺山修司がいったように、「戦前戦中の社会はたったひとりのために拍手する社会だったが、戦後社会はかけがえのないひとりひとりが拍手し合う社会」だと信じたい。 

戦後民主主義のパラダイムの地下深く、隠されてきた覇権主義の幻影

そして、安倍元首相襲撃を実行した容疑者の動機が、母親が旧統一教会の信者で、教会への過大な寄附などにより家庭が崩壊した恨みから、関わりのある政治家として参議院選挙の応援演説中の安倍晋三氏にやり場のない憎悪が向けられたことがわかりました。
 そこからにわかに30年以上も前に霊感商法などで大きな社会問題となった旧統一教会が現在もまだ、自民党議員をはじめとする政治家と深くつながり、日本の政治に暗い影を落としていることが明るみに出ました。7月14日の岸田首相の国葬宣言の時は少なくとも安倍晋三氏の功績をたたえる名目であったものが、いまや旧統一教会との黒い噂の真実を握っていたと思われる安倍晋三氏への追求を逃れることで、戦後の自民党保守政治のもっとも黒い闇にふたをして、今の選挙制度を利用しながら少しずつ個人の自由を奪い、ソフトな全体主義国家を作り上げる最後の仕上げにすすむことになるのでしょう。
 そのためにこそなにがなんでも「偉大な政治家・安倍晋三」氏の国葬を執り行うことが、当初の岸田首相の自民党内の保守勢力への忖度以上の深い意味を持ち始めているのだと思います。
 おそらくそれは、明治維新から始まった近代国家・大日本帝国の支配層の見果てぬ夢と野望が日中戦争・太平洋戦争の敗戦でとん挫し、日本国憲法に結実した国民主権と平等と、他国の領土を奪う軍事力の放棄という戦後の日本社会のパラダイムの地下深く、隠されてきた覇権主義の幻影の復権なのだと思います。
 そう考えると、安倍晋三氏を撃った弾丸は彼のいのちを奪った許されない、そして哀しい暴力であったと同時に、戦後77年貪ってきた戦後民主主義の幸福幻想の扉を破っただけでなく、その奥にぎっしり詰まっている明治維新以来の血塗られた権力と欲望と支配の歴史を路上にさらけ出したと言えるのかもしれません。

20年の時をへて、小説「海辺のカフカ」の想像の町から放たれたひとつの弾丸

 村上春樹の小説「海辺のカフカ」では、戦争中に少年だったナカタさんが四国の神社にある、時代の暗闇を閉じ込めている「入り口の石」を開けることで、主人公の少年カフカは森の奥の過去幻想の町に迷い込みます。ナカタさんはカフカが起こらなかった過去の町から這い上がり、これからの人生を歩み始めるのを見届け、再び「入り口の石」で暗い闇にふたをすると、戦後そのためだけに生きてきた悲しい人生を終えます。
 小森陽一氏は著書「村上春樹論~海辺のカフカを精読する」で、9.11同時多発テロの翌年に発表されたこの小説を、テロと暴力の連鎖を止められない世界と、記憶の消去と歴史の否認による歴史修正主義を容認する危険な小説と批判しました。
 女性蔑視を容認し、従軍慰安婦問題など国家(あるいは男たち)の起こした暴力を免責し、国家や男たちの暴力はいたしかたないこととすることで、ひとびとに癒しと救済をもたらすというわけです。
 しかしながら、この小説は癒やしどころか、とてもこわい小説で、危険な小説というより危険を予見する小説といえるかもしれません。小森陽一氏の著書「村上春樹論」は、まさしくもうひとつの小説「海辺のカフカ」といえるもので、「海辺のカフカ」の世界に流れる得体の知れない暗闇のありかを教えてくれました。
 前回に取り上げた「1Q84」に負けず劣らず、小説「海辺のカフカ」の想像の「入口の石」は20年の時をへて現実に放たれたひとつの弾丸とつながっていて、あの物語は今回の事件を予見していたのだと、今になって思うのです。

ソフトな全体主義国家への見果てぬ野望を止められるのか

 今はマスコミも世論も反社会的な活動を持つ旧統一教会と政治家が関係を持ったかどうかをチェックするのに熱中し、政治家が何も知らずに引きずり込まれたような印象操作と共に、これからは関係を持たないという決意がほんとうなのかどうか詮索する風潮です。
 しかしながら、ほんとうのところ現在の個々の政治家は先例に基づいて代々関わってきたというのが正直なところで、事の本質はより深くより広くより長く、戦後の保守勢力の一部が旧統一教会と手を組み、日本の社会主義化、共産主義化をはばむことと、家族絶対主義、血統主義を貫き、推し進めることに心血を注いできたのだと思います。
 次の関連記事ではとても自信がないのですが、旧統一教会と勝共連合の「反共」活動がなぜこれほどまでに受け入れられたのか、日本でも世界でもなぜ共産主義が怖れられるのかを自分なりに考えたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です