再録 あらためて、小室等さんのこと。「十得」にて

あらためて、小室等さんのこと。「十得」にて
2013.10.02 Wed

9月29日、京都のライブハウス「十得」で小室ひとし&こむろゆいのユニット・Lagniapaとラグパパス・ジャグバンドのライブがありました。
小室さんのことについてはこのブログでも書きましたが、わたしは障害者市民運動の関係で1986年、1994年、2007年と小室さんのライブを開かせていただいた他、いまアルバイトをさせてもらっている被災障害者支援・ゆめ風基金の呼びかけ人代表でもある小室さんとは、何かとお世話になってきました。
小室さんを知ったのはおそらく、1971年の「出発の歌」だと思います。前にも書いていましたように、わたしが19才だった1966年から23才の1970年までの4年間、もし大学生だったとしても大学紛争や70年安保闘争などの学生運動に参加していなかったのではないかと思っているのですが、その同時代を3年間はビルの清掃員、後の1年は働きもせず、今でいうニートのように友だちと共同で借りていた家にこもりっきりの暮らしをしていました。
街に出れば政治の季節風が吹き荒れ、タイガースなどのグループサウンズが巷の袋小路にまでなだれ込む、そんな時代でした。一緒に暮らしていた数少ない友人と、時々泊まりにくる学生運動家と話す以外は社会から果てしなく逃げ続けることだけを考えていました。
そして、よく理解できるわけでもないサルトルの「存在と無」から、単純に「わたしはひとりだ」と納得し、寺山修司の「書を捨てよ、家を出よう」に、シングルマザーの母と私生児の兄とわたしを強く結びつける暗い絆を断ち切るための切ない手段を探していました。
外国の歌などほとんど聴かなかったわたしのまわりでは、ビートルズ旋風が吹き荒れていて、わたしもとうとう畠山みどり、森進一からビートルズへと、演歌(?)からロック、ポップスへと川を渡ってしまいました。その一方で、寺山修司の影響もあって加賀てつやとリンド&リーダーズが好きになり、寺山修司の友人だった古川益雄がプロデュースしていたライブハウス「GT」に通うようにもなっていました。
1970年、ビートルズが解散した年、よど号ハイジャック事件、日米安保条約の自動延長といった社会の出来事とはまったく関係なく、わたしは仕事を見つけ、妻との結婚を翌年に控えて生活を立て直さなければなりませんでした。そんな時にわたしを励ましてくれたのが三上寛の歌で、まだ小室さんの音楽との出会いはありませんでした。
1971年、小室さんがフォーク・グループ「六文銭」として上條恒彦との共演による「出発(たびだち)の歌」が第2回世界歌謡祭でグランプリ・歌唱賞を受賞したのをテレビで見ていました。この時、はじめて知った小室さんが、すでに日本のフォークソングのカリスマであったことを後から知りました。
1975年には吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげると「フォーライフ・レコード」を設立しましたが、アーティストが曲の制作から広報、営業まで強い権限を持つのは初めてのことで、レコード会社を中心とする音楽業界の反感は強く、さまざまな妨害があったと聞きます。
フォーライフ・レコードのその後は小室さんが望むようなものとはいいがたく、紆余曲折の末の解散という結末になりましたが、自分の歌いたい歌を歌い、自分でプロデュースし、世に出していくという音楽への想いと行動は多くのシンガー・ソングライターを勇気づけ、また大手のレコード会社やプロダクションに頼らない、自由な音楽環境をその後の若い人たちに用意し、いまのJポップへといたる道を切り開いた先駆者でもありました。
1976年、山田太一作のドラマ「高原へいらっしゃい」の主題歌となった「お早うの朝」と挿入歌の「高原」を聴いてファンになったわたしは、この2曲が収録されている谷川俊太郎の詩によるアルバム「いま生きていること」を買ってきて、家に帰ると毎日といっていいほどこのアルバムを聴いていた時代があり、そこから小室さんの音楽との付き合いが始まったのでした。
そして、唐十郎を座長とする「状況劇場」の音楽を長い間担当し、数々の隠れた名曲をつくってこられたことは、あまり知られていないかも知れません。
わたしがはじめて状況劇場の芝居を観たのはかなりおそく、「唐版・風の又三郎」でしたが、大島渚の「新宿泥棒日記」などで垣間見たり、「現代詩手帳」で唐十郎の劇中歌が取り上げられたりしていました。どこで聴いたのかおぼえていないのですが1969年の「腰巻お仙~振袖火事の巻」の劇中歌「さすらいの唄」が大好きで、当時の豊能障害者労働センターの機関紙でよく引用したものでした。
「ある夕方のこと 風がおいらに伝えさ」と、不敵に歌い出す唐十郎の声は世界の果てから聴こえてくるような不気味さといっしょに、一瞬にしてわたしを非日常のわくわくした世界にいざなってくれました。そして、この歌はもちろんのこと、小室さん作曲の数々の歌は唐十郎をはじめとする役者陣の声を通して、劇的であるだけでなく大地や海や森や沼や、薄暗い工場や便所の戸、袋小路の奇怪なお店にただようあやしげで胡散臭く、セクシーで純情な芝居の空気を見事にメロディーにしていて、今でもこれらの歌を耳にするとその時の芝居のセットから役者の表情までが浮かんできます。
小室さんにとって唐十郎とつくりあげたこれらの曲は彼の主だったエリアではない、いわゆる「日本調」で、わたしは小室さんのもうひとつの才能が大きく花開いた歌作りだったと思っています。

さて、最近の小室さんを見ていると、こんなすごい人なのにそんな過去はどうでもよくて、いま全国各地の小さなグループの依頼を受けてフットワーク軽くその地を訪れ、一緒に演奏するバンドのひとたちやお客さんと音楽の場を共に作り、楽しむことにとても貪欲で、名声などまったく邪魔でしかないような立ち振る舞いに感動してしまいます。
29日のライブでも今年で70才になるとは思えないほど昔と変わらない声と独特の匂いを持った節回し、どこまでもやさしいけれど、決して世の中のあやうい風潮に妥協しない激しさも失わない小室さんを聴き、観ることができました。
共演された「ラグパパス・ジャグバンド」は神戸を中心に活動されていて、ひとりひとりがそれぞれ自分のバンドを率いるベテランぞろいのユニットでした。
ジャグ・バンドとはアメリカ南部の綿畑で働く黒人労働者が貧困のため、身近にある生活用具代用楽器にして音楽を楽しんだことが始まりとされています。そしてバンジョー、ハーモニカ、バイオリンなども加わり、当時の流行歌、ジャズ、ブルース、カントリー等々、身近に有る音楽を何でも取り込んで楽器に合わせたスタイルに消化して楽しむという懐の深さに大きな特色があるそうです。
この日も、音楽は演奏するバンドだけでなく、お客さんもみんなで楽しむものだという気持ちがあふれ、わたしたち観客も思わず手をたたき、足を踏み鳴らしてしまいました。
小室さんは、まるでいたずら小僧のように楽しくて仕方ないようで、このひとはほんとうにソングライターの前にシンガーであることが楽しいのだと、あらためて感じました。
そして、京都のライブハウス「十得」はそんな音楽が誕生する場として、関西のみならず全国のアーティストやお客さんに愛されてきたことも感じた夜でした。

唐十郎作詞・小室等作曲・唐十郎「さすらいの唄」(2011年・大唐十郎展「21世紀リサイタル」より)

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