私たちは、負けるわけにはいかないのです。桑名正博コンサート・風の華'92

1992年は豊能障害者労働センターにとって格別な年でした。豊能障害者労働センター10周年の年でもあり、2月7日には箕面市民会館で山田太一さんと西川きよしさんのトークイベントを開催しました。
実は1988年、わたしたちは障害者市民運動から高齢者をはじめとする生き難い市民がほんとうに必要とする福祉施策を求めて、専従スタッフの八幡隆司(現・被災障害者支援「ゆめ風基金」理事)を箕面市議会に送り込みました。それから4年後になる1992は8月に箕面市議会選挙を控えていました。このイベントはそれが背景にあったものの、わたしは豊能障害者労働センターと出会うずっと前から山田太一さんの大ファンで、そんな事情にとらわれず関西一円に呼びかけ、山田太一さんのお話を一人で多くの方に聞いていただきたいと思いました。その思いが通じてこのイベントも1000人会場を満席にし、お客さんから「豊能障害者労働センターはいつもすてきな催しをしてくれるね」とほめていただきました。
このイベントの準備中に6月7日に開く桑名さんのコンサートのポスターやチラシを作成し、イベントが終わると同時に、応援してくれた個人の方々やグループのみなさんにお礼とともに桑名さんのコンサートのお願いをしたものですから、ずいぶんびっくりされました。
それでも、人手がないわたしたちはそうしなければ1年に2回も1000人会場でのイベントを成功させることができなかったのでした。
山田太一さんと西川きよしさんのトークイベントは8月の選挙のために計画されたものでした。このイベントも8月の選挙もわたしたちの背丈を越えるものでしたから、今年は桑名さんのコンサートをお休みしようという意見が多く、わたしたちの力量からいえばそれが常識的な判断であったことでしょう。
けれども、わたしはどうしても桑名さんのコンサートを開きたいと思いました。わたしは政治的な活動とは無縁な人間だと思っていますが、唯一選挙運動に参加したのが八幡隆司さんと障害者運動の先駆者のひとりである豊中の入部香代子さんの選挙だけでした。人前で話すことも苦手なら、年齢的にも街頭活動の体力もなく、運転免許もないわたしはもっぱら、よく裏選対といわれる部分の役割をしていました。
そんなわたしが命を燃やして選挙運動にかかわったのは、障害者、高齢者をはじめとする生き難い人々がこの街であたりまえに暮らしていけるために、ほんとうに必要とする人にほんとうに必要とする福祉施策を届ける街づくりを共に担いたいと願ったからでした。
1988年から16年、箕面市議会議員として活動した八幡隆司さんの選挙のことはまたの機会にまとめておきたいと思っています。

選挙運動に参加するにあたり、わたしは選挙運動をしているわたしたちのようには、ほとんどの市民はほんとうのところそれほど政治や選挙に関心がないということを肝に銘じていました。それが不幸なことなのかどうかはわかりませんが、わたしにはむしろそのひとたちの感覚の方が普通であって、選挙運動をしているわたしたちこそ、独りよがりのお祭り騒ぎをしているのではないかといつも自問することを忘れないように心がけていました。寺山修司がかつて言ったように、「政治的変革は人間の変革のごく一部でしかない」以上、自由と人権と解放をもとめて投票用紙をにぎりしめる紛争の地の選挙のようにはわたしたちの国や街の選挙はすでにないことは得票率が教えてくれています。
ですから、わたしは桑名さんのコンサートをわたしたちの事情によってお休みしたくなかったのでした。わたしたちの依頼があればまた箕面に来ると昨年の時点で決めて下さっていた桑名さんの好意と心意気にも礼を失するだけでなく、なによりも箕面市民をはじめとするたくさんの方々が、すでにこのコンサートを待っていてくださっていることを知っていたからでした。

この日は梅雨入りで午後から雨が降りはじめ、雨になると当日券のお客さんが少ないだろうし、今年は1000人は難しいと覚悟していました。そのうち雨はかなり激しくなって、開演の時はどしゃぶりになってしまいましたが、なんと1100人のお客さんで、また立ち見のお客さんに迷惑をかけてしまいました。
ステージは前年の小島良喜さん、妹尾隆一郎さん、原田喧太さんにくわえて、この年は「UNTITLED」というバンド編成でした。ステージの報告は次のブログで、また当時の豊能障害者労働センター機関紙「積木」から転載します。

8月の選挙の方ですが、ほんとうに必要とする人に必要な福祉を届けたいというわたしたちのよびかけに多くの市民の方々が応えてくださり、八幡さんは当選しました。
わたしは前年にエイズで亡くなった「クィーン」のフレディー・マーキュリーの「We Are The Champions(伝説のチャンピオン)」の、「それはすべての人類にたいするきびしい挑戦といったほうがいい、だから、決して負けるわけにはいかないのだ」という歌詞の一節をいただき、「私たちは、勝ちたいのではありません。私たちは、負けるわけにはいかないのです」と豊能障害者労働センター機関紙「積木」に書きました。
この選挙期間中、街頭でのメッセージとして、何度もアナウンスされたことをうれしく思いだします。
この歌詞は同性愛に対する差別や偏見、結婚などの社会制度の拘束への「たたかい」を歌ったとも言われていますが、実際、今もそうですがその当時はとくに障害者運動としても明日のごはんをたべるためにも必死で駆け巡っていましたから、この言葉はわたしの実感そのものだったのです。

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