次なる荒野へ1万キロ 桑名正博コンサート「風の華’93」を終えて

桑名正博コンサートメモリーズ
1993年8月26日発行、豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.69号より

ひとつの時代の終わりから
生きることが夢みことなら
次なる荒野へ1万キロ

桑名正博コンサート「風の華’93」を終えて

その一瞬のためにどれだけの心が交わり、どれだけの時がぬりこめられたことだろう。
人間たちのさまざまな夢をたくわえた花火が、長い夜に夢みたすべてを燃やしながら最初で最後の輝きを放つように、その一瞬は突然ぼくたちの夢みる心のときめきを爆発させたのだった。
7月18日、梅雨明けがもう少しでやってくる黒い空につつまれた夜、ぼくたちは船底のような箕面市民会館のホールでそんな一瞬を通り過ぎた。
今年で4回目となった桑名正博チャリテーコンサート「風の華’93」のオープニングは、今までとまったくちがう思いをぼくたちに届けてくれた。

桑名正博さん、先日はほんとうにありがとうございました。打ち上げの時、桑名さんやメンバーのみなさんがこのコンサートのことを大切にしてくださっていることを、ぼくたちはあらためて知りました。思い返せば4回コンサートを開いてきたのに、ぼくたちの事務所に来ていただいたのはあの時がはじめてでした。そして、今年はどんなにせまくても、この事務所に来てもらおうと思っていました。

1度目は突然の出会いに、緊張と期待が手さぐりしていた。
2度目はもう一度の出会いを確かめた、やさしさにつつまれていた。
3度目は何かに憑かれたような、はげしいいとおしさに抱きしめられた。
そして4度目の今年、ぼくたちは特別な思いでこのコンサートを準備しました。
ぼくたちはいま、この事務所での最後の一日一日をすごしています。
箕面市役所から、この事務所の立ち退きを迫られています。正式に申し入れがあったのが6月末、秋には立ち退いてほしいという急な話で、引っ越し先の問題で箕面市と話し合いをつづけています。
この事務所に移転したのは1988年5月のことでした。
1982年、障害者の働く場づくりと自立生活をすすめる拠点として静かに出発した豊能障害者労働センターの旧事務所は古い民家でバリアフリーではなく、また年々障害者スタッフが増え続け、身動きができないほどで、雨漏りもはげしく限界になっていました。
一般企業への就労が困難とされる障害者が保護や訓練の対象ではなく、障害者自身が運営を担い、ともに働く豊能障害者労働センターに対する福祉助成施策は国にも大阪府にもなく、今は箕面市独自の制度である障害者事業所の制度があるもの、当時は箕面市にもありませんでした。
かろうじて箕面市が土地だけは提供し(現在の坊島の事務所は箕面市障害者事業団より貸与されています)、全国の方々からの寄付金を建設費用にして、3年がかりでやっと移転したのでした。事務所での6年間は悲惨なもので、外から帰ってきたらもう一枚上着を着るぐらいの寒さでした。
障害者が生活していけるだけの給料をと心意気だけは熱かったのですがお金はほとんど入らず、毎週日曜日に募金活動で食べていた時代でした。古いメンバーにとっては、なつかしい思い出になるには過酷だったこの時代ですが、それでも心だけは遠い地平に向かってかけ走っていた時代でもありました。

この事務所に移転して一週間、急に明るく広いところにきたものでみんな仕事が手につかず、窓からわきたつ緑のかおりに頬をそめながら、ぼんやりと外の景色をながめていました。
いまから思えば、陽も当たらない前の事務所のガラス窓をせわしくたたいていたぼくたちの見果てぬ夢が新しい事務所のすみずみにしみこんでいくために、時が一瞬のまどろみをプレゼントしてくれたのだと思います。そんなやすらぎに満ちあふれ、心が解きほぐされる一週間でした。
その時、ぼくたちにそれから後のめまぐるしい日々と、今の労働センターの姿を想像することはできませんでした。旧事務所が、吹き抜ける風に身をかがめながら、かろうじてぼくたちの夢みる心をかくまってきた袋小路だったとすれば、この事務所は、ぼくたちの夢みる心が解き放たれ、たくわえた涙と言葉と言葉にならない急ぐ心と、出会いと別れと希望と後悔が時速200キロで突っ走る荒野でした。
突っ走ることでぼくたちがなくしたものもあったことでしょう。けれども、ぼくたちが得たものもまた数え切れません。
ありがとう、さよならというには、静かな神話の時代からけたたましい歴史の時代を過ごしたこの事務所もまたぼくたちには去りがたく、いまだに移転しなければならないという実感がありません。
桑名正博さん、ぼくたちはそんな思いがかけめぐる中で、7月18日、コンサートの当日を迎えました。4回目ということと国政選挙とも重なったりで、今年は空席が出ると覚悟していました。ところがふたを開けてみると1100人の方々のご来場をいただきました。
新しいバンド編成となり、またちがう新鮮な音が会場をおそい、お客さんの方も立ち上がっても不思議でない熱気につつまれていました。
「立って踊ったら、後ろの人が見えなくなるので、それができなかったのが心残りです」と、何人かのひとがアンケートに書いてくれました。このコンサートではお客さんに気を使わせているのだなと心苦しく思いました。
そして、飛び入りのゲストでもんたよしのりさんが登場すると、会場の興奮は最高潮に達しました。あの時、このコンサートの主催者がぼくたちであることが信じられないほどうれしいと思う反面、とんでもない恐怖のようなものさえ感じました。
労働センターの障害者スタッフが花束を持ってステージに登場し、「青春に負けないで」を歌っている間に、何度も桑名さんが言いかけて飲み込んだ言葉を、ぼくたちもまた心に飲み込みました。このコンサートが、桑名さんとぼくたちと、そして年に一度、不便な箕面市民会館に来てくれたひとたちとがいっしょにつくる、みんなのコンサートになったことを感じました。
「また、来年も」という言葉を残してくれた桑名さんたちを見送った後、「来年はこの事務所にはもういない」という切なさが、酒をつぎあうグラスにたまりました。
この事務所とともに、ぼくたちのひとつの時代が終わろうとしているのかもしれません。
だからこそ、この時代のほとんどを桑名さんの4回のコンサートでつづってきたぼくたちは、次なる荒野へと急がなければならないと思うのです。

桑名正博さん、そして1100人のみなさん、
今年もありがとうこざいました。

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