ぼくたちのロックンロールは心の果てからやってくる

桑名正博コンサートメモリーズ
1997年5月20日発行、豊能障害者労働センター機関紙「積木」増刊NO.19号より

遠い旅を多くの友情とともに
伝説のコンサート復活! 桑名正博コンサート「風の華’97」

あれから4年、ぼくたちは数えきれない「こんにちは」と「さよなら」をくりかえした。
そして、あの大地震がぼくたちをおそい、ぼくたちは特別な時と格闘した。
街はその景色を塗りかえたか、死んだ友の夢はいまもぼくたちの心のひだにつきささったままだ。
さめたまま眠るぼくたちの「いま」に、どんな恋歌が必要なのだろう。
切ない15年を胸に抱いて、それでもぼくたちはもう一度歌う。
ぼくたちの「ほんとう」と、それでもかぎりなく透きとおる青空を!


ぼくがまだ小学生だったころ、歌は学校の授業とラジオからしか聞こえてこなかった。街では「平凡」、「明星」といったスター雑誌やブロマイドがはやり、映画館がいつも満員だったが、貧乏なぼくたちには無縁なものだった。
しょっちゅう音が小さくなったかと思うと、まるでラジオから寒い風がぼくたちにおそいかかるように、「ヒュー、ヒュー、ガガッ」と雑音が入る。
その風の下をくぐりぬけて、ぼくたちの暗い部屋に歌が流れてきた。それはまだ「戦後」と呼んでいた時代の、ぼくたちのただひとつの「ここではない文化」だったのだと今では思う。くさりかけたご飯を何度も洗い、お茶づけをのどに通す時に決まって聞こえてくる美空ひばりの歌を聞きながら、「ぼくたちはきっとこのまま。幸せなんかやってこない」と、思ったものだった。
戦後民主主義は学校の中でだけ、ぼくたちに自由と希望と個人の幸せをふりかけたけれど、ぼくたちの暗い路地には舞い降りてはこなかった。
中学になると、いつのまにかぼくたちの家々にもテレビがやってきた。灰色の四角い窓は、いつも「しばらくお待ちください」という文字が現れ、村田英雄は「いまにおまえの時代が来る」とぼくたちをぬかよろこびさせた。
テレビはぼくたちの四畳半に、明るい未来と幸せを押し売りしていた。そこから流れる歌はアメリカの青春を歌い、都会と車とジュークボックスとコーヒースタンドとレストランでは恋と夢が満ちあふれていた。ぼくはといえばあいもかわらずきたないランニングシャツを着て、やぶれた靴下と足の裏に垢と土をためていた。その歌のむこうに、アメリカ社会の矛盾と、こどもたちのどんなせつなさがあったのかを知らなかったし、ぼくが歌謡曲を聴いている間に、ラジオが遠い海をこえてぼくたちにこそメッセージを送っていたことも知るすべがなかった。
ともあれ、ぼくは畠山みどりが「やるぞみておれ、口にはださず、腹におさめた一途な夢を」と歌うところに、ぼく自身の逃げ出したい現実とほこりまみれの希望をつめこんだ。演歌が好きになったのは、この歌からだった。 あの時代をとりまくいっさいがっさいから脱出したいと願うどもりの少年にとって、この歌は心の奥に流れ込み、長い間消えなかった。まだ高校にいく子どもが少なく、母ひとりで一膳飯屋を切り盛りしながら兄とぼくを育てていた生活から言って、中学から就職というのがあたりまえのところだったが、「高校だけは行かしたい」と強く願った母のおかげで工業高校に入学した。ぼくの心は「どもる」ということでちぢこまり、授業で朗読するのがいやで何度も学校をやめようと思ったが、母の気持ちを考えるとそれもできなかった。

そして、ラジオからビートルズが流れてきた。耳鼻咽喉科で知り合った年上の、ちょっと不良の友だちから「ビートルズええで」と言われた。夜にラジオのつまみをひねると、どこでもビートルズが流れてきた。ぼくがはじめて聴いた外国の歌だった。実際、その少し前のエルビス・プレスリーなど、どれひとつ聴いたことがなかったぼくに届いたその歌は、ほんとうに遠くはるばる世界中を旅してきたような、不思議な香りを持っていた。高校時代の数少ない友だち、その中にぼくの妻もいたが、みんなビートルズのファンで、ひねくれものだったぼくひとり、畠山みどりから井沢八郎、森進一と、いわゆる演歌を通していた。「ぜったいビートルズのファンになんかなるもんか」。
高校を卒業し、友だちといっしょにアパートを借りてから引っ越しをくりかえし、一時は二戸一の住宅を借り、男三人女三人でくらしていた頃、ぼくはもう包囲網に負けてビートルズファンになっていた。半年で会社をやめてビル清掃を三年つづけ、体をこわして一年以上無職だったが、貯金をきりくずしながら大阪ではじめてできたディスコに通いつめた。そこでかかっていたビートルズ、リズム&ブルース、ボブ・ディラン。(「時代は変わる」など、踊れる曲ではないのにみんな踊っていた)終電車をのがして大阪のビルの谷間を朝まで歩いた。
それでもほんとうの音楽ファンではなかったし、このころにはラジオも聴かなくなった。いっしょに暮らす数人の友だちだけとしかつきあえない対人恐怖症のぼくは身の置き場がなく、その住宅にかくれながら、ただただこの街から、この社会から脱出できる所をさがしていた。
時代は騒然としていた。アメリカでは公民権運動の激流が伝えられたし、日本では七十年安保闘争と大学紛争で街を歩けばデモがあり、地下街では学生たちのシュプレヒコールがなりひびいていた。そして、警察とデモ隊のはげしい衝突は「大阪戦争」といわれる一斉行動で阪急の構内にまでおよんだ。同じ年頃だったぼくはと言えば、昼と夜とがひっくりかえった生活で、求めても切ない自分の幸せへの絶望だけが親友だった。なにかしなければと思ったし、また実際デモに参加したこともあった。しかし左右の学生と冷たい両手をつなぎながら、彼らが歌う「インターナショナル」が歌えず、やっぱり畠山みどりの歌しかうかばなかった。

ずっと後のことだった。60年代の音楽についての番組で50年代から60年代のロックンロール、リズム&ブルース、ソウルへの流れと、アメリカの公民権運動に代表される人権運動、黒人社会をはじめとするマイノリティーの歴史を描くテレビ番組を見た。
そして、それほど音楽好きでもなかったぼくにまで、なぜビートルズが届いたのかをはじめて知った。子どものころに出会わなかった星くずほどの歌が誕生した時代の荒野に、ぼくの歌にまつわる個人史もまた海をへだててたしかにあったことが、おどろきとともに胸を熱くした。
黒人文化のすぐそばで、はげしい人種差別がうずまくアメリカ南部の白人貧困層から誕生したロックンロールは、良くも悪くも黒人文化を白人社会にもちこみながら、怒れる若者たちの新しい文化を大人たちにみせつけた。ロックンロールがいくつもの海をわたり、リバプールの港からビートルズとなって、日本の貧しいぼくたちの街にも届いた時、その荷物の中にかくされた荒野をかいま見せてくれたこともほんとうだった。
そしていま、ぼくたちはどんな新しい歌を必要としているのだろう。ぼくたちの心の奥深く、ぼくたちの今と未来を打ち続けるためのリズムを待っているその歌は、ロックンロールがそうであったように、市民権を獲得しようとするひとびとから生まれることを、ぼくたちは信じているから・・・。

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