映画「蝶の舌」と思い出としての民主主義・ピースマーケットへの道4

この文章は14年前の2001年秋、豊能障害者労働センター機関紙「積木」に掲載した記事です。

映画「蝶の舌」
「蝶の舌」というスペイン映画を見た。1936年の冬の終わり、ガリシア地方の小さな村。喘息持ちで一年おくれで学校に行った少年モンチョを、優しく教室に入れるグレゴリオ先生。春になると子供たちを森に連れだし、自然の不思議をたくさん教えてくれた。
ティロノリンコという鳥が繁殖期になるとメスに蘭の花を贈ること、蝶には細くてゼンマイのように巻かれた舌があるということ。モンチョは先生に導かれて大自然の驚異にふれながら成長していく。夏のはじめ、グレゴリオ先生は「自由に飛び立ちなさい」という言葉を残して引退する。夏休み、モンチョは先生と森へ出かけ、2人の絆はより強くなる。
そんな夏休みの終わり、フランコ将軍が軍部、教会、資本家を後ろ盾に軍事蜂起し、40年間のフランコ独裁へとつづくスペイン内戦がはじまる。教会の勢力の強いガリシア地方はまたたく間に軍部派に占拠され、リベラルな人たちが次々と検挙され、トラックの荷台に連行される。その中にグレゴリオ先生の姿もあった。村人たちは自分たちが生き残るため、仲間や友人たちに罵りの言葉を投げかけ、石を投げるのだった。モンチョは走り出すトラックを追いかけ、叫ぶ。「ティロノリンコ!蝶の舌!!」。別れることの術もまだ知らない少年の悲しい瞳が映し出されたまま、映画は終る。

時代の風景
この映画を観て、子どもだった頃、ぼくのひとみに映ったはずの大人たちの社会を検証してみたくなった。ぼくもまた時代のすべてを風景として子どもの現実を生きたはずだし、子供たちのひとみがモンチョのような悲しみにつつまれないために、大人のぼくがしなければいけないことがあるのではないかと。
たとえば、1960年・・・・・・。
1960年は安保闘争の年だった。岩波ジュニア新書「昭和時代年表」によると、2月に新安保条約国会上程、4月26日8万人の請願デモ、5月19日自民党単独強行採決、5月20日国会へ10万人、26日17万人のデモ隊が国会議事堂を包囲した。6月4日・15日労働組合の実力行使に600万人の労働者が参加、全国の鉄道はマヒした。6月15日国会突入、樺美智子さんの死、6月18日33万人が国会を包囲した。そして、6月19日午前零時、数万人が国会を包囲する中で新安保条約は自然承認、沖縄に立ち寄ったアイゼンハワー大統領が2万5000人に囲まれる。7月15日岸信介首相辞任、池田勇人首相の所得倍増計画、10月12日社会党委員長・浅沼稲次郎が刺殺される。
すべての大人たちが参加したわけではもちろんないし、ぼく自身それから10年後、70年安保の激動の時も傍観者にしかなれなかったが、ぼくが大人になっていく20年あまりの年月は、ぼくにとっても社会にとっても特別な時代だったのだと思う。

思い出としての民主主義
キャデラックが通り過ぎた路地に
とり残された夕暮れの空よ
まるでもう日が暮れないかのように

遠近法的な青春の海岸線を
ヒットナンバーを鳴らして突っ走る
キャデラック
それはぼくの見たはじめての英語だった
それは時々やってきたぼくの父親だった

ドッジボールとせみとりと
高校野球と中古のラジオ
希望に満ちた記念写真と
はじめて持ったハーモニカ
それはぼくの見たはじめての民主主義だった

1947年、ぼくは生まれた。ぼくが育った風景は、鉄条網とガード下と原っぱと牛馬とメリケン粉と麦飯・・・。おもちゃもないぼくたち子どもは黒い土の上で走りまわり、相撲ごっこやドッジボールで遊んだ。夕方、長屋の前に並ぶ七輪からいわしの煙が立ち込める時間になると急いで家に帰り、我が家がやっと手に入れた中古のラジオで聴いたドラマ「少年探偵団」の小林少年たちの活躍に心おどらせたものだった。
1960年4月はじめ、ぼくはまたたくまに燃えていく中学校の木造校舎を見ていた。
それは入学式から一週間たった日曜日だった。地面を黒くしたまま何もなくなってしまった焼け跡に朝礼台だけがさびた光を遊ばしていた。
不謹慎だが、実はぼくはうきうきしていた。それは思いがけない事件の中にいる興奮のせいだけではない。大人たちが用意したものはすべてなくなり、いまからぼくたち子どもが学校をつくるような幻想にひたれたからだと思う。2年の時に学校が合併し、コンクリート建てのまっさらな校舎に入ったが、一年の時の放課後にプレハブ校舎をつつむ夕やけの赤さだけを今もはっきりと思い出す。
ぼくたちは貧乏だった。そして自由だった。界隈にお金持ちはほとんどいなかった。生活の苦しさや個々の家族の事情が大人たちにあっただろうが、そんな事情をぼくたちこどもが読み取れるはずもなく、貧乏であることが普通だった。1945年から1960年まで、めまぐるしく走りぬける時代の風景はいつも青い空につつまれ、ぼくたちもまた貧乏とともにやってきた戦後民主主義の原っぱをかけめぐったのだ。
今の街や学校はどうだろう。映画「蝶の舌」を見て、焼け跡にできた一年だけのプレハブ校舎を思い出す時、言葉をのみこんでしまう。

二十一世紀の子どもたちへ
1960年の9月にはテレビのカラー放送が始まった。街はまだかろうじて黒い土を残していたが、ぼくたちはもう、そんなに単純には貧乏であることも自由であることも許されなくなりつつあった。それぞれの家の事情がぼくたちをひきはなし、つながれない悲しみとつながることを切なく求めるひとみを持つ子どもになっていった。
そして今、ぼくが生きた長い人生をふりかえる時、思い出としての民主主義ではだめなのだと思う。もちろん、スペインのファシズムを映さなければならなかった少年モンチョのひとみと、今の子どもたちのひとみが同じだとは決して思わない。けれども、携帯メールのなにげない言葉に切なくちぢむ心をたくす子どもたちに、二十世紀の子どもだったぼくたちが渡し忘れた「自由」と「夢」を届けたいと切実に思う。

「自由に飛び立ちなさい!」
「ティロノリンコ!蝶の舌!!」

西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」
1960年のヒット曲といえば、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」をすぐに思いだします。この歌は60年安保を象徴する歌と言われましたが、13歳だった私にとっては巷に流れていた流行歌でした。わたしは西田佐知子が多くの歌い手さんとどこかちがって、バタくさいというか、どこか映画や芝居を観ているようなふんいきがあり、とても好きでした。後に唐十郎のたしか「風の又三郎」の挿入歌に西田佐知子の「エリカの花が散るとき」が使われていて、ドタバタ喜劇と悲劇が繰り返される向こう側から静かにやってくる死者たちの純情を彩る懐かしくも不思議な歌声に、西田佐知子を再発見したことを思い出します。この時の根津甚八と小林薫、李礼仙はすごかった。特に小林薫の熱演は鮮明に覚えています。今年も唐組がやってきます。

藤圭子「アカシアの雨がやむとき」
この歌の持つ不思議な演劇性を藤圭子が見事に表現しているので、紹介しました。このひとに時代がかぶせたイメージはあまりにも大きすぎたため、並みすぐれた歌唱力で数々のカバー曲を歌っていたことを最近まで知りませんでした。

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