人間への限りないやさしさととぎすまされた感性
2015年4月 小室等さん、牧口一二さん、小室ゆいさん
牧口一二さんを偲ぶ
9月26日、牧口一二さんが亡くなられました。
牧口さんは、わたしがいま採録している「私的障害者解放運動放浪史の著者・河野秀忠さんの盟友で、全国の障害者運動の黎明期から活動されてきた方ですが、河野さんとのつながりで、箕面の障害者団体や人権団体にいつも勇気づけてくださった恩人でもあります。
わたしも豊能障害者労働センター在職中に、機関紙「積木」への寄稿にとどまらず、さまざまな学習会や、山田太一さんの講演会でもお世話になるなど、あんなこともこんなこともと思い出がつきることがありません。
古くは1976年に結成された「誰でも乗れる地下鉄をつくる会」の活動により、1980年に全国で初めて大阪の地下鉄・喜連瓜破駅にエレベーターが設置され、その後長居駅をはじめて次々とエレベーターが設置され、牧口一二さんの名前が広く知られるようになりました。
1995年の阪神淡路大地震を機に、被災障害者の救援活動をけん引しながら、将来の自然災害時の備えとして、河野さんとともに「ゆめ風10億円基金」運動を呼びかけられ、寄せられた基金はその後の東日本大震災や熊本大地震、そして今困難の極みに立たされている能登半島地震の被災地などに届けられるだけでなく、被災地を中心に障害者ネットワークと共に救援・再生の活動を続けています。
ゆめ風基金を立ち上げにあたり、呼びかけ人代表を引き受けた下さった永六輔さん、その後代表をひきついでくださった小室等さん他、さまざまな分野で活躍される方々がこの運動に参加してくださったのも、牧口一二さんの並々ならぬ想いが伝わったからでした。
余談ですが、牧口さんにたくさんの原稿をお願いしてきましたが、その字体は数えきれない相談相手や悩みまどう子どもたちやおとなたちに肉声で語りかけているようで、ひととき、わたしはこの文字をデータ化し、「牧口フォント」がつくれないかと思ったりました。
そして、牧口さんのライフワークだった小・中学校での講演はおそらく2000校を越えていたと思いますが、牧口さんのお話を聞いて自分らしく生きることと他者を思う想像力を学び、進路を決めた子どもたちは数えきれないことと思います。わたしの身近にもそんな子どもたちが大人になり、牧口さんの柔らかく率直な人生観、「ちがうことこそパンザイ」と、当時はそんな言葉もあまりなかった多様な個性や生き方に元気と勇気をもらい、それをまた今の子どもたちに伝えつづけている人たちがいます。
わたしは通夜も告別式にも参加できなかったのですが、ご遺族と教会のご配慮もあったことと思いますが、幸運にも前日にお別れに行くことができました。
牧口さんのおだやかなお顔を拝見しながら、無数の言葉を残してくださった中から、学校巡りをされていた時の子どもたちとのやり取りを記してくださったものを紹介し、追悼の言葉とさせていただきます。
おとなたちは子どもたちから生きる力を奪っている。あー、おとなよ、余計なことはするな!
学校めぐりを始めて20数年になるが。そのうち小学校がほぼ5割で800校を少し超えた。それに中学校が3割で高校が2割といったぐあい、訪問校はもう1600校を越えている。はじめたきっかけは、障害者運動仲間の楠敏雄さんから、ある小学校から生徒たちへの講演を頼まれていたのだが、前日から熱が出て、ボクに代役を頼んできたのだった。
朝とつぜんに「講演をたのむ、相手は小学3・4年」と頼まれ、小学生たちは(当時)40すぎの男を相手にしてくれるだろうか。何を話せばいいのだろう?障害のこと?(当時)松葉づえ人生?頭がまとまらないまま小学校へ出かけた。体育館で待っていたのは3年生と4年生だ。
この出会いが以後、学校めぐりに拍車を駆けることになるとは、その時思ってもみなかった。
あとで分かったのだが、3・4年生ごろはある程度ものごとが理解でき、それでいて遠慮を知らない年頃だったのだ。その愉快なこと愉快なこと。
何を語りかけようか、また迷ったまま子どもたちの前に立った。と、子らはボクの松葉づえ姿に矢継ぎ早の質問を浴びせてきたのだ。「おっちゃん、足、どないしたん?」、「足あるん?」、「歩かれへんの?」、「おしっこ、どうやるん?」、「うんちは?」……胸が熱くなって、しばらく呆然としていた。おとなの仲間たちはこんなに率直に尋ねてくれない。どこかで気遣われながらの付き合いなのだ、ということが子らとの出会うことでモロに感じられた。なんという気持ちのいい関係だろうか。ボクは子どもたちの質問に体を張って精一杯応えていこうと覚悟した。(2004年11月17日 障害者労働センター連絡会通信より 要約)
ボクは今、小学校巡りをしていて、子どもたちに僕の動かない右足を見せ、「この足、生きてると思う・死んでると思う?」と尋ねてみる。すると多くの子どもたちが「死んでる」と答える。「なぜ死んでると思った?」と聞き返すと、「役に立たないから」と答える。役立つものしか価値として認めない社会は、当然のように障害者や高齢者に冷たい。それがやがて子ども自身の生き方に関わってくることを子どもたちは知る由もない。(1992年8月12日 豊能障害者労働センター機関紙「積木」219号より)
牧口 一二(まきぐち いちじ)1937年-2024年9月26日
日本のグラフィックデザイナー、障害者運動家、作家。
大阪府出身。大阪美術学校(現・大阪芸術大学)卒業。障害者の社会進出、自立などを考え、精力的に活動し、被災障害者支援「NPO法人 ゆめ・風10億円基金」を呼びかけ、初代事務局長をつとめる。
障害者文化情報研究所所長。大阪市立大学、桃山学院大学、関西学院大学非常勤講師を歴任、 障害者の一人として、障害者にしか分からない社会のおかしさ、矛盾を指摘。
人間の自立や、人と人との共生を考えるだけでなく、動物と人間、植物と人間との共生など、周囲の環境と人間の暮らしについても考察。
2024年9月26日に死去。87歳没。
日本聖公会の信徒で有り、大阪聖ヨハネ教会にて葬儀が営まれた。
出演番組
きらっといきる(NHK教育テレビ)1999年~2009年
著書
「風の旅人」、「ちがうことこそ ええこっちゃ」、「雨あがりのギンヤンマたち」
「夕やけ空のオニヤンマ」、「あなたと障害者と。」、「われら何を掴むか」、「何が不自由で、どちらが自由か」等多数。