ふたつのラブソング 槇原敬之と金森幸介  その1・槇原敬之

どんな時も、ひとびとは槇原敬之の歌をかくしていた

5月24日、槇原敬之のコンサートに行きました。わたしは彼のファンというわけでもなく、たまたま行く予定の友人が行けなくなり、急遽堺東の近くのコンサートホール・フニーチェ堺にもう一人の友人と行くことになったのでした。

 槇原敬之が2020年2月、覚醒剤取締法違反などの疑いで逮捕され、同年8月3日、懲役2年・執行猶予3年の判決を受けたニュースはまだ記憶に生々しく、1999年につづく2度目の逮捕は、長い間寄り添って生きてきた同性の恋人との別れなど私生活をもさらされることになりました。世間の厳しい批判の中、当面の活動を休止していましたが、 昨年の9月、「やはり私には音楽しかない」と活動を再開しました。
 わたしが行ったコンサートは、再起を期したアルバムを携えたツアーの大阪公演のひとつでした。実際のところ、ファンでもないわたしにとってそれほど期待していたわけでもなく、一緒に行った友人もまた同じで、あまり気乗りがしないまま行ったという感じでしたが、聴いてびっくり、素晴らしく感動的なコンサートでした。
 コロナ禍というより、彼の個人的な事件により再起不能とも言われていた中で、世間の批判も覚悟でステージに立てたことへのうれしさと申しわけなさと感謝が入り混じり、腰が折れるぐらいにお辞儀をする槇原敬之と、それでも彼を深く愛し、ただひたすら彼が帰ってくる日を待ち望み、客席を埋め尽くした2000人のコアなファンとの強いつながりが、このコンサートをいつもとは違うものにしたのでした。

壊れそうな心から聴こえる愛と勇気の歌

 槇原敬之の歌はドラマのテーマソングやCMソングなどでわたしでも一度はきいたことがある流行り歌が多く、その歌作りはオーソドックスかつシンプルで、たとえばほのかな片思いや切ない別れ、人生の岐路に立った時の心の震えなど、小さな日常の小さな事件を切々と歌いあげるラブソングばかりで、ある意味あきれてしまうほどですが、聴いているわたしたちは自分自身の甘酸っぱい記憶を呼び起こされ、肋骨にしみるような涙の一滴一滴をかみしめるのでした。
 「好き」という言葉がすぐ隣で聴こえながら、心の果てからざわめくように遥か遠くから聴こえる彼の歌は、それがゆえにたくさんの人たちの心に届き、立ち尽くすひとたちがまた一歩を歩き始める応援歌なのでしょう。

 ライブで彼の歌を聴き、しばしば甘っちょろく軟弱だと思っていた歌が、実はとても切実な愛と勇気の歌で、時には誰かの死を思いとどまらせるほんとうに政治的で社会的な祈りの歌なのだと思いました。そんなことを感じてつい涙ぐみながら、いつのまにか槇原敬之のファンになってしまいました。
 そういえば、「どんなときも」も「遠く遠く」も、「世界でひとつだけの花」も、彼自身の壊れてしまいそうな心から奇跡的に生まれた歌なのかも知れません。

 暴力と妬みが暗い闇をむさぼり、ひとりひとりの心の小さな日常やささやかな幸せがあっという間に踏みにじられてしまいそうになる世の中で、彼の歌がその危険な道に抗うラブソングでありつづけることができるのか、そして渇望と恐怖と絶望が彼の心を壊さないでいてくれるかどうかは、まさしくわたしたちの生きる同時代の「炭鉱のカナリヤ」としてあることでしょう。
 歌うことでしか償えず、歌うことでしか生きられない、ひとりのいとおしい歌手を、2000人の人が抱きしめた、そんな特別な夜でした。

槇原敬之 - 宜候 [Music Video]

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