焚火の思い出と、共に生きる希望と勇気

やがて悲しみは希望にかわり
新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ
光ることができません
だから星は焚き火をして
光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く
星がにじんでいます

その絵は焚き火の絵でした。四人の人間が焚き火をしています。その炎からいくつもの星が生まれ、そのうちのひとつの星が大地に堕ちてなお、きらきら光る…。
全体がオレンジ色の小さな絵の中で、果てしない大きな空間がわたしたちを包みます。そこには無数の悲しみがかくれていて、焚き火はそのひとつひとつをいとおしくすくい上げるのでした。
2003年、急逝された吉田たろうさんに代わってカレンダーのイラストを描いてくれるひとを探していたわたしの目に飛び込んできた一枚の絵が、松井しのぶさんとの出会いをつくってくれたのでした。

焚き火の思い出
中学生の時、冬休みに一度だけアルバイトをしたことがあります。わたしの家には父がいなくて、母が飯屋をしながらわたしと兄を育ててくれました。そのころは中学生でも家計を助けるために新聞配達をしたり知り合いのお店や工場でアルバイトをする友だちもいたように思います。わたしの家の状況から言えば真っ先にアルバイトをしてもあたりまえだったのですが、母はそれを嫌っていました。店の手伝いをしてほしかったこともありますが、なによりも勉強してほしかったのだと思います。
1960年には高校進学率は67%に達していたのですが、それでも貧乏な家庭の子どもは就職して家計を助けるのがふつうでした。そんな時代に自分の身体がこわれても「高校だけは行かせたい」という母の切実な願いは、いわゆる私生児でよりどころがない子どもが生きていくには学問しかないという切なくて頑固な信念から来ていました。
そんなわけでわたしは学校から帰るとお店の手伝いをしながら、空いたテーブルで勉強していました。そのおかげでわたしの教科書もノートも醤油やソースのこぼれたあとがいつもへばりついていました。
どんないきさつだったのかおぼえていませんが、アルバイト先はわたしの数少ない友人で、似たような境遇だった同級生の家がやっていた工務店でした。いまから思えばわたしたち家族の生活への気づかいと対人恐怖症で引っ込み思案のわたしを心配して、その友人の母親がわたしの母を説得してアルバイトをさせてくれたのだと思います。
仕事は南大阪の大和川河川敷でのボーリング地質調査の手伝いでした。おそらく仕事にはならず、職人さんの足を引っ張って迷惑をかけたことと思います。ともあれわたしは冬休みのほんの一週間、働かせてもらったのでした。
寒い朝、工務店に着くと数人の職人さんが大きなドラム缶に廃材を放り込み、焚き火をしていて、「冷たいやろ、早よあったまり。」といつも声をかけてくれました。身体がかちかちになっているわたしは焚き火に差し出した両手から、あたたかさを身体の中にゆっくりと流し込みました。
パチパチと木がはぜる音、ぼんやりとゆれる炎。顔のほてりを両手でこすりながら、わたしは心の中の何かかたくななものがとけていくのを感じていました。その15分ほどの時間がとてもうれしかったことをおぼえています。今思い返すとそのあたたかさは焚き火だけのせいではなく、特別な事情をかかえる子どもを温かく見守る職人さんたちの心づかいだったのだと思います。

共に生きる勇気を育てるために
阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていました。5500人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではありません。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思います。
余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのでした。それは5500を超えるたましいを見送る儀式でもあったが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもありました。
阪神大震災はこの社会が安全ではないことを教えてくれたことで、直接被災しなかったひとびとにも深い傷を残しました。その後次々と起こる大災害、無差別テロ、信じられない事件…。今振り返るとあの地震はその後の世界のとてつもない悲しみと無数の死を予感していたのだと思います。
地震から一週間後、被災障害者に救援物資を届けるためにはじめて被災地に入りました。川のそばの大きな公園で焚き火を見た瞬間、子どもの頃のあの焚き火とそれをかこむやさしいまなざしを思い出しました。

実際のところ、戦後にうまれたわたしが生きている間に、阪神淡路大震災よりも大きな出来事が起きるとは思いもしませんでした。ですから正直今でも、津波があらゆるものを一気に押し流していき、車や人が行きまどい、押し流されていく風景が頭から離れず、恐怖感に襲われます。
もちろん、家族をなくし、友人をなくし、今までの暮しすべてを奪われた被災地のひとびとの悲しみ、怒り、悔しさがわたしにわかることは決してないでしょう。しかしながら、被災地はもとより、生き残ったわたしたちのいやしきれない心の傷とどう折り合いをつけたらいいのか、これからわたしたちはどう生きていくのか、どんな社会を望むのか、長い時を重ねて答えを探さなければと思っています。被災障害者支援「ゆめ風基金」に少しでもかかわらせてもらっている中で、そのことをひしひしと感じています。
今回の大震災でも、避難所で焚火をする光景がずっとテレビに映っていました。
16年前を思い出しながら、ひとはずっと昔から焚き火をすることで小さな悲しみも想像を越える大きな悲しみも分かち合い、共に生きる勇気を育ててきたのかも知れないと、あらためて思いました。

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