10年ぶりの旅行と2匹の猫

11月4日、5日、妻と2人で福井県の三方五湖へ旅行に行きました。実に10年ぶりのことでした。10年前、2003年という年はわたしの人生において特別な年でした。 娘の結婚、豊能障害者労働センターとの別れ、そしてすでに同居していた妻の母親の家に引っ越したこと…。 中でも豊能障害者労働センターを去ることになったことは寂しい限りでした。思えば1982年、豊能障害者労働センターが障害者市民の生活と労働の場として設立された当初より運営委員をさせていただき、さらに1987年に勤めていた会社をやめ、40才にして専従スタッフになってから16年の歳月が過ぎていました。20年勤めていた会社も辞められると思っていなかったのですが、豊能障害者労働センターと出会い、お金はなくてもとびきり楽しい夢と見果てぬ野望にわくわくしながらの、あっという間の16年でした。もちろん、悲しいことや苦しいことや切ないことも数えきれないほどありましたが、それでも豊能障害者労働センターでの16年はわたしのほんとうの青春でしたし、わたしの人生そのものでした。 ふりかえると不思議なもので、出会ったことよりも別れたことの方が感慨深いものです。「さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう。はるかなはるかな地の果てに、咲いてる野の百合なんだろう」。寺山修司のこの言葉はたしか有名な漢詩を井伏鱒二が訳した「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生さ」から引っ張り出した言葉で、森進一の「花と蝶」の替え歌になっていてよく口ずさんだものでした。豊能障害者労働センターとの別れもまた新しい旅立ちであったのだと、今はなつかしく思います。 ともあれ、豊能障害者労働センターを去ると同時に長年暮らした箕面を離れ、妻の母親とともに彼女が慣れ親しむ服部緑地のそばの家に引っ越しました。 彼女は夫、つまりわたしの妻の父親がずっと前に亡くなってから長い間一人で暮らしていたのですが、いつごろからかいわゆる認知症になり、少しずつ状態が進んでいきました。 妻が豊能障害者労働センターをやめた2000年ぐらいから妻が一週間に一度様子を見に行くようになったのですが、そのうちいよいよ一人暮らしはむずかしくなり、といって私も妻も箕面での仕事が離れられず、申し訳ないけれどお母さんに箕面に来てもらい、わたしたちと同居できる家を借りて暮らすようになりました。 お母さんは認知症が少しずつ進んでいたものの、まだなんとか歩くことができていましたが、時々荷物をいくつも持ってタクシーに乗り、緑地の家に行くことがありました。鍵がかかって入れないので、しかたなく箕面の家に帰ろうとするのですがその場所がわからず、タクシーの運転手が持ち物の中から住所と電話番号を調べ、妻に連絡が入ることもよくありました。お母さんにしてみれば、長い間住んできた家から離れ、あまりなじみのない箕面の家に来ている事情がわからないのも当然です。 そんな事情から、わたしが豊能障害者労働センターをやめるのを機に、2003年の暮れにお母さんの家にわたしたちも引っ越したのでした。 それからは3人で旅行に行くようにして来ましたが、お母さんの状態がもっと進んでしまい、旅行に行っても車いすに座って寝ていることが多く、温泉にも入らなくなってしまいました。

わたしたち夫婦だけで旅行に行くとなるとお母さんにショートステイ(宿泊サービス)を利用してもらわなければならず、ひとつは介護者の都合でショートステイを利用してもらうことに心苦しさを感じたり、実際に問題なく利用できるのかという不安もありました。けれどもわたしから見てお母さんのことを第一に考えている妻であっても、介護疲れから少ししんどくなっている状態がつづき、思いきって旅行に行くことにしたのでした。 いよいよ出発当日、気配を感じるのかお母さんはすこぶる機嫌が悪く、心配でしたがともかくお迎えの車に乗って行きました。わたしたちも急いで近くのバス停へと急ぎ、電車を乗り継ぎ、JR大阪駅に着きました。特急は利用せず新快速で敦賀まで乗り、敦賀から小浜線で三方に着き、タクシーで近くの縄文博物館に行きました。妻の希望で行きましたが(というより今回の企画はすべて彼女によるものです)、妻には少し物足りなかったようですが、わたしは興味深く学習できました。 実際のところ、展示品はレプリカが多く、たしかに見るべき物はあまりなかったのかも知れませんが、16000年前から2500年までの間、小さな生活圏で山や森や海や川の恵みを自然の生態系をこわさない範囲で収穫し、自然の脅威と折り合いをつけながら創意工夫で道具をつくり住処をつくり、子育てをしてきた縄文人の暮らしには現代人のわたしたちがなくしてしまった大きな思想を感じました。 そこにははっきりと展示されていませんでしたが、わたしは縄文時代の音楽に興味を持ちました。というのも、島津亜矢の音楽に触れて以来、彼女の声のルーツをたどると鳥や虫、森や木々、川や海など、自然が奏でる数々の音へとつながっているように思えてならないのです。そうだとすれば武器を発明し、血塗られた歴史をつくってきた一方で、人間は自然を愛しひとを愛し、手をつなぎ心をつなぐ平和への切ない願いから歌を生み出し、楽器を発明したのではないかと思うのです。家に帰って調べてみると、土や石や木などから道具をつくった縄文人は土鈴、土笛などをつくっていたようで、おそらく石器をたたき、土笛を吹き、木々をゆらす風の音や鳥たちの鳴き声や水の音を聞きながら歌を歌ったのではないでしょうか。 さて、博物館を出ると、宿泊する虹岳島荘の親切な社長さんが車で迎えに来てくださいました。日本秘湯を守る会の宿でもある虹岳島荘は古民家を利用した建物らしく、最近の温泉宿が競い合う派手な接待もアメニティーもありませんでしたが、部屋のすぐそばが湖で、わたしたち夫婦にはすばらしい宿でした。料理の方もこの時期でしたらどこでもカニを目玉にしていますが、ここではそうではない地味な料理を丁寧につくっていて、とても満足しました。 お風呂も少しぬるめのお湯でしたので、わたしは初めて4回も入ってしまいました。 縄文博物館から来たこともあるのでしょうが、この土地が途方もなく長い年月をかけて培ってきた生活の文化や思想がそのままこの宿にあふれていて、とても心が洗われたように思いました。 もっとも、こんな素晴らしい地域に原発があり、その電力をわたしもまた使っていることがとても残念でもあります。

あくる日、最大のイベントは「レインボーライン・山頂公園」で、車やタクシーで有料道路を山頂下の駐車場まで行き、そこからケーブルかリフトで山頂に登ると、三方五湖のすべての湖と若狭湾が一望できるのです。この日は雲一つない快晴で、空と海との境目がなく、溶け合っていました。 ここは、それとは別に「恋人の聖地」を売り物にしていて、狭い山頂のいたるところに「誓いの鍵」がぎっしりつまっていて、この風景を台無しにしているようにわたしは思いました。それはともあれ、こんな素晴らしい風景に360度囲まれたのですから、あまり文句も言えないかも知れません。 そこからは少しずつ中途半端な時間をつまみ食いしながら、大阪に帰ってきました。 そんなに派手な旅行ではありませんが、久しぶりに夫婦二人だけの旅行を楽しむことができました。 お母さんはあくる日の夕方に帰ってきました。さぞや機嫌がわるいだろうなと思っていたら、妻の話ではとても上機嫌で、土産のお菓子を食べながら「旅行に行けてよかったね」と言ってくれたそうです。 せめて年に一度は、これぐらいの小旅行にまた行きたいねと二人で話しました。

さて、今日は我が家に息子が猫2匹を連れてきてくれました。今年の一月にわたしたちを長い間支えてくれた「メイ」という猫が死んでしまい、「メイに代わる猫はない」と、絶対に猫は飼わないでおこうと言っていた妻も、息子の勧めで飼うことになったのでした。 それも猫がさびしいだろうから2匹も飼うことになり、さっそく男猫はミル、女猫はレモンと名付けました。

10年ぶりの旅行と2匹の猫” に対して2件のコメントがあります。

  1. S.N より:

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    tunehiko 様

    久しぶりのお二人でのご旅行、本当に良かったですね。
    縄文人の生活から学ぶことは、たくさんありそうですね。
    我々が文明だと思ってきたものには、思想が乏しいかもしれません。
    2匹の猫も可愛がられて幸せでしょう。よかったですね。

  2. tunehiko より:

    SECRET: 0
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    S.N様
    いつもおせわになっています。とてもプライベートなことでおつきあいしていただくのが心苦しいのです。
    いま、実は2匹の寝る子のうち、1匹が床下に入り込んで出て来ず、とてもこまっています。息子がケージから出したらあかんと言っていたのに、忠告を破ってしまったのです。
    なんとか救出?しようとしていますが。

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