映画「みんなの学校」

映画「みんなの学校」を観ました。
関西テレビの報道部門で活躍してきた真鍋俊永監督作品のこの映画は子どもたちや教職員、さらには地域住民が一体になって「すべての子どもに居場所がある学校」を目指す大阪市の市立大空小学校の取り組みを、1年に渡って取材したドキュメンタリー映画です。2013年度文化庁芸術祭大賞の他、数々の賞を受賞し、アンコール上映が相次ぎ、ロングランのヒットとなっています。
長年、障害者の問題とかかわり、また豊能障害者労働センターの元代表・河野秀忠さんによる障害児教育教材の全国販売にも携わってきたわたしにとって、「開かれた学校」は理想とするものですが現実は絶望的で、「共に学ぶ」ことは絶望的な夢物語なのかと思い始めていたところでしたので、この学校の存在を知って心が躍る思いです。
「障害児がいたら他の子どもたちの迷惑になる」とか、「その子どもたちのためにもその子にあった勉強の場を別につくるのが教育だ」とか、「人権とか共に学ぶとか、そんなきれいごとは現場では通じない」とか、いろいろな理由をつけては地域の子どもをわけてきた根拠がまったく理不尽なものであることを、この学校は証明してくれたのでした。
しかも、「問題のある子」を各小学校から隔離し、一か所に集めた「特別教室」を設置しようとする大阪市の教育行政の中で、真逆の「共に学ぶ」ことを開校以来6年間徹底的に実践してきたこの学校は大阪市のみならず全国の数多くの人々に勇気を届けてくれました。
学校運営の権限が教育委員会や国や市長ではなく、学校長にあることから実現しているこの学校の実践は、全国に先駆けて橋下市長の教育施策のもとで、教育委員会すら意味がないと首長(市長)に学校運営の権限を移そうとしている大阪市に置いて、これから先がどうなのかと不安になります。
しかしながら、そんな不安や懸念や統合教育、インクルーシブ教育を論じる間などこの学校の現場にはなく、すべての地域の子どもを地域の学校で受け入れ、しかも支援教室など別の部屋で学ぶのではなく、時には走り回る子も不登校の子もみんなひとつの教室で学び、子どもたちのさまざまな事件と向き合う具体的な日常が隠し事なく開かれているからこそ、子どもたちもまた学校を自分の居場所と認めてくれたのだと思います。
特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんなが同じ教室で学ぶ。開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人も一緒になって、誰もが通い続けることができる学校を作ってきた。すぐに教室を飛び出してしまう子も、つい友達に暴力を振るってしまう子も、みんなで見守る…。映画は子どもたち、先生たち、親たち、地域のボランティアの人たちとともに、大空小学校の一年をていねいに記録していきます。

わたしは子どものころ、ひどい対人恐怖症と「どもり」で、学校が怖くていやで小学校一年の一学期はまるまる不登校でした。二年生の時は一か月、三年生で一週間と少しずつましになり、四年生になってはじめて学校に行けるようになりました。
わたし自身がそれでも少しずつ成長したこともありますが、なんといっても四年生の担任の先生が人形さんのようにきれいなひとで、しかもピアノの上手な音楽の先生で、学校に行くのが楽しくなったのでした。
実は彼女自身が学校になじめない所をもっていたようで、たった一年間で学校を去って行きましたが、わたしの音楽好きは間違いなくこの先生のおかげで、それまで歌謡曲しか知らなかったわたしに音楽の教科書に登場する、いわゆる「洋楽」のようなものの片鱗をか細い指がたたくピアノの音色と共に触れることができたのでした。
それはともあれ、わたしはいつのまにか「どもるくせ」がおさまることで対人恐怖症も消え、中学校の三年生までは生意気といわれるほど活発な子どもになっていたのですが、ある時またどもりが復活し、それからは高校を卒業するまでずっと学校の教室にいるのが苦痛で、緊張し、心を固く閉ざしたままでした。
会社づとめをするようになってもそれは変わらず、ふりかえるとそんなわたしがごまかしごまかしよくも今まで生きてこれたとつくづく思うのです。
ある日、障害を持つひとと出会い、豊能障害者労働センターとかかわるようになり、わたしははじめて心を開くことができるようになりました。35才になっていました。
豊能障害者労働センターとの出会い、そして専従スタッフとして働いた日々は騒々しくハチャメチャに時をむさぼる日々でしたが、若いころには暗闇しか用意されなかったわたしの青春と人生を生きなおす「いやし」の日々でもありました。
「ひとは子ども時代に復讐することで大人になる」と言ったのは寺山修司だったと思いますが、まさしくわたしは豊能障害者労働センターの活動を通して、自分のやりきれない子ども時代に復讐することができたのだと思います。
わたしにとって、豊能障害者労働センターこそが「もうひとつの開かれた、みんなの学校」だったのでした。
わたしにとっては現実の学校は緊張するだけの心を閉ざすものでしかなかったのですが、もしわたしが大空小学校に通う子どもだったとしたら、きっと人生が変わっていたかも知れません。そして、すべての子どもに居場所がある学校なら、わたしはその学校のどこに居場所を求めるのだろう…、映画を観ながらそんなことを考えました。

ドキュメンタリー映画としてこの映画がどうなのかと思うと、最初はやや斜めに見てしまい、「テレビ的」だなと思いました。しかしながら、ドキュメンタリーの真骨頂はカメラがとらえきれない現実に押しつぶされそうな一瞬にあるとすれば、この映画に登場するひとびとのあふれる思いがスクリーンからこぼれ落ちる瞬間を追いかけるだけのこの映画は、「テレビ」がドラマでもバラエティでもなく事件だった頃を思い出させます。
そして校長先生だけが目立っていたようで、実は主役はやはり子どもたちで、まだ人生を始めたばかりの子どもたちが体ごといろいろな事件にぶつかり、すさまじいスピードで「了解」や「和解」や「反省」という人生の踊り場を通り過ぎ、また事件にぶつかる姿に涙がでます。
その中でもずっと気にかかるのは、すぐにキレて殴ってしまう子が、校長先生に「殴らない」という約束をしてから殴ってしまった相手に謝りに行くと、「和解」どころか相手に思いっきり殴られてしまいます。涙を流しながら抵抗しなかった彼は校長先生に「えらかた」と褒められますが、わたしは少しかわいそうになりました。その子はそれから後の公開授業か何かで、泣きながら「殴らない」といい、卒業式のコメントでもやはり泣きながら「殴らない」というのですが、わたしはそこで号泣に近い涙を流してしまいました。
果たしてその子が大人になった時、「復讐すべき子ども時代」としてこのことをどう思っているのだろうと思いました。
校長先生と約束したから、つまり大人への服従として殴らないことを決めたのか、それとも加速度的に成長し、大人の想像力などあっという間に越えてしまう彼方に向かい、「殴ること」を捨て、他者とのかかわりを探す旅の途中で流した涙なのか、わたしにはわかりません。
けれども、もし大人がよくも悪くも本気で子どもと向かい合い、子どももまた大人と本気で向かい合い、子どもと子どもが本気で向かいあうことで後者への可能性を信じられるとしたら、「学校」は本来の学び合う場に近づき、教育の本質のひとつと言える「調教」の役割を捨てられるかも知れない…、大空小学校と映画「みんなの学校」はそんな冒険と期待にあふれていました。

映画『みんなの学校』公式サイト

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