ひとは武器を持つこともできるが楽器を持つこともできる

七夕に輝くチャリティーコンサート in みのお2024 盛況でした。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えられるんです。
変えられるとも言えるし、変えてしまうとも言える。過去はそれぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
平野啓一郎「マチネの終わりに」
少し前になりますが、7月7日、箕面市立メイホープルホール大ホールで「七夕に輝くチャリティーコンサート in みのお2024」が開かれました。
この催しはドイツで活動するヴィオラ奏者・吉田馨さんの呼びかけで18年前から開かれている室内音楽のコンサートです。当初は箕面の市民運動から生まれた高齢者の介護施設を応援しようと始まったのですが、2011年以降は東日本大震災を機に宮城県石巻の人々ともつながり、出演者が少しずつ変わっても20年近く続いてきました。コンサートにかかる費用を極力抑え、被災障害者支援「ゆめ風基金」を通じて足もとで苦しんでいる人々への支援金を届けたいという想いから生まれる音楽はいつもしなやかで開かれていて、聴く者をやさしく包み込んでくれるのでした。
わたしも一度、実行委員会に参加させていただいたこともあり、毎年楽しみにしていたのですが、昨年は参加することができず、2年ぶりに彼女彼らの音楽を聴くことができました。
今年はいままでの会場だった箕面文化センターが閉鎖され、近くの箕面市立メイプルホールでのコンサートになりました。500席もある大きな会場でしたが多くのお客さんが来られ、このコンサートが音楽を通して北摂の街・箕面から多様な人々が共に生き助け合う平和な世界を願う広場になっていることを改めて感じました。
夏の光のかがやきに、音楽が解きほぐす記憶の時間
エルガーの「愛のあいさつ」から始まった第1部は、演奏者とお客さんの一体感があった今までの会場と違い、音楽をきちんと味わえる本格的なホールのため、当初は戸惑いもありましたが、2曲目からは2人のヴァイオリンとヴィオラ、チェロ、コントラバス5人の演奏にピアノが入り、大ホールならではの緊張感と躍動感にあふれ、いつのまにかそれぞれの演奏に引き込まれました。
休憩をはさんで第2部は演奏者全員によるミハイル・グリンカの第六重奏曲変ホ長調の全3楽章で、新しい会場にふさわしい壮大な演奏でした。
クラシック音楽の知識のないわたしは、今回のミハイル・グリンカの楽曲も作曲者の名前もまったく知りませんでした。後で調べると、1800年代に活躍したロシア近代音楽の先駆者で、西洋音楽に学びつつロシア民謡などを取り入れた美しいメロディをオペラや器楽曲にうつしとり、音楽家としてアイデンティティを確立したひとのようです。
第1部で出演者6人のそれぞれの演奏を聴いていましたので、全員が奏でるこの楽曲の演奏がより深くより広く心に届きました。その音楽のエネルギーはきっと客席を越えてホールの外にまで広がっていったことでしょう。
「私たちによく知られたクラシックの作曲家の多くは、極度の貧困や病を抱え、今では考えられないほどの状況の下、それでも自身の中から溢れ出る音楽を楽譜に書き写し、それらを皆で分かち合うために作曲を続けました。だからこそ、時間を越え、何百年もの時を経た今でも世界中でその音楽が演奏され、多くの人たちに愛されるのだと思います。私たちに寄り添い、さらに生き抜く力と勇気を与えてくれる彼女彼らのメッセージを、当日の会場で皆様と共有させていただきたいです。」(案内のパンフレットより)
このコンサートをプロデュースするヴィオラ奏者の吉田馨さんが書き記した言葉通り、いくもの時代を越え世界の各地でくりかえされ、もう取り返しのつかないところに来てしまったと心を閉じてしまいそうなわたしたちに、あきらめない勇気をくれたコンサートでした。
音楽に力があるとすれば、閉ざされた心の最後の扉を静かに開けるからなのかもしれない
わたしは音楽がひとの心を癒やし、時代をも変える力があるのかどうかはわかりませんが、もし音楽がひとの心を動かす力があるとしたら、それはひとの心にはいくつもの扉があり、音楽はその中でも密やかに用意されている心の最後の扉を静かに開けることができるのだと思います。
特にそのことを強く感じるようになったのは、いままでほとんど無関心だったクラシック音楽の室内楽のコンサートに行くようになってからでした。そのきっかけを作ってくれたのが吉田馨さんで、コンサートの収益を寄付する被災障害者支援「ゆめ風基金」のイベントの手伝いに来てくれたのがはじめての出会いでした。そのすぐ後に豊中市岡町の「桜の庄兵衛」さんで彼女が出演するコンサートが開かれ、はじめてクラシックの室内楽を聴きました。その時に演奏されたブラームスの楽曲が今も心に残っています。それ以来「桜の庄兵衛」さんのコンサートにたびたびおじゃまするようになりました。
聴く機会が増えるにつれて、わたしはクラシック音楽が幾多の時代を渡り世界の各地で演奏され続けてきたのは、戦争と虐殺を繰り返すことをやめられない人間の理不尽な歴史とともにあるからではないかと思うようになりました。寺山修司の引用癖になぞって言えば、「音楽のない時代は不幸だが、音楽を必要とする時代はもっと不幸だ」と言うことなのかも知れません。
平野啓一郎の小説で、クラシックギター奏者とフランスの通信社に勤めるジャーナリストの叶わなかった愛を、イラク戦争から東日本大震災までの長い時間と地平を通して綴った「マチネの終わりに」を読み終えてすぐの今年のコンサートは、それでも願い、想わずにはいられない愛の行方を探す未来からの一歩のように思いました。
