孤独と寂しさ、切なさに届く「動く伝言板」「福祉の出前」 箕面の暑い選挙

暑い日々が続く中、箕面の市議会議員選挙と市長選をたたかっている友人たちに申し訳ないと思いながら、能勢町の日常生活を過ごしています。
去年の夏ごろから地域の子どもたちの通学路に立ち、見守り隊の活動をしています。小さな町の小さな地域なので、20人ぐらいしかいないのですが、元気のいい子、しんどそうな子、愛想のいい子、悪い子と、ほんとうにさまざまな子どもたちが急な坂を降りていく、その後ろ姿がいとおしくなるのは歳のせいなんでしょうか。
こんな風に何年も子どもたちの後ろ姿が遠ざかっていく光景を、その時々の大人たちは見てきたのだと思います。やがて大人になり、この町を出ていった彼女彼らがどんな人生を生きているのかと思うと、いまこの子たちにどんな未来を用意できるのかはわたしたち大人にかかっているのだと強く感じます。
大阪維新の会がすすめてきた大阪の教育行政は、教育長を首長が任命するなど、戦前の軍事教育の反省から教育を行政から独立させてきた努力をあっさりとこわし、行政による教育への介入を当然としてきました。そして、人々の公務員と教職員への妬みを利用し、新自由主義の進展と歩調を合わせた教職員の人数削減、学校の統廃合など「教育コストの見直し」を進めたことを自らの成果としています。
そして、教育を「国際競争力に勝つ優秀な人材育成」の道具ととらえ、いわば企業の社員教育と変わらない論理で教育の成果を教員と保護者、子どもたちに押し付けてきました。
学校を社会や産業にとって優秀な人材をつくる工場とみなし、教師をあたかも従業員とするような「教育改革」はこどもたちを傷つけるだけだとわたしは思います。
子どもたちが友だちと出会い、どれだけちがった個性と共に生きることができるかを学び合う場としての学校が牢獄と化し、どれだけの子どもたちが学校に行くことを恐怖ととらえているかを、そして一年に2万人のひとが自殺する中に子どもたちも少なからずいることを、わたしたち大人は知らなければならないと思うのです。
効率が悪いかもしれないけれど、テストではかるような成果がないかも知れないけれど、何十年たった後に、学校で学んだことが自殺を思いとどまらせたり、人生を変えることがあるような、そんな学校であってほしいと思います。
頻繁に発生する自然災害につづき、今回のコロナショックにより、半世紀以上も席巻してきた新自由主義のもろさを目の当たりにして、より早くとひた走り続けてきた20世紀の町づくりから、よりゆっくり、誰もが安心して暮らせる心豊かな町づくりのありようを模索しはじめた世界の人々と、わたしたちはつながっていると感じます。
小中学校の全学年を少人数学級にすることや、公的医療と保健所の再建、そして大学卒業から多額の借金の返済に追われる理不尽をなくすことが、ほんとうの意味の「新しい社会」への第一歩だと思うのです。
「大阪の成長を止めるな」と、成長神話と幸福幻想をばらまき、一方で自己責任のもとで必要な公的サービスを削減してきた維新の政治は、東京集中の政治経済に対する大阪人の反発と妬みをたくみに利用した「悪者探し」に人々を巻き込み、「大阪を元気にしたい」という中小企業や零細企業、個人事業主を担い手として、橋下氏のカリスマ性に頼らず大阪府全域にネットワークをはり巡らせ、今回の箕面市長選挙をかちとれば残るは大阪の孤島と言われたわが能勢町に最後の一手を打つところまでになってしまいました。
そして、化けの皮がはがれてきたアベノミクスに代わる大阪モデルを「新しい成長の矢」とする新自由主義の先鋒として、再度本格的に国政に躍り出て自民党と、なさぬ仲の公明党と手を結ぶ翼賛体制へと突きすすみ、日本社会を危ないところへと追い込むのではないかと危惧しています。そうなれば次の時代を担う子どもたちにとてつもなく大きく悲惨な負債を背負わせることになります。
それにあらがえる唯一の方法は、誰ひとり傷つかない、傷つけない、だれひとり取り残されることのない箕面の町を願い、路石の下でうごめくせつない思いを受け止め、小さな声を拾い集めて訴える「動く伝言板」として、中西とも子さん、ますだ京子さん、日本共産党の神田たかおさん、名手ひろきさん、村川まみさんの議員候補、そして、「市民の市民による市民のための箕面」を願い、熾烈なたたかいをつづける住谷のぼるさんと、コロナショック後の新しい箕面の町をわたしたち市民が作り出す以外にないと思うのです。
維新の会のひとびとも憑りつかれてしまった「成長」という呪縛から解き放たれ、格好悪くてもいい、埃だらけの希望を捨てないで、後1日となった箕面の夏を駆け抜けていってくれることを願うばかりです。

最後に、まじめに選挙を必死でたたかっている方々に叱られることを承知で、1984年の選挙の時だったと思うのですが、笑えない喜劇のようなエピソードを思い出します。
1982年に設立した豊能障害者労働センターは2人の脳性まひの障害者スタッフをふくむ5人で、桜井駅裏の路地深くの当時築30年の民家で活動を始めました。それから2年後には脳性まひの青年と、箕面市立旧あかつき園から2人の知的障害といわれるスタッフが加わりました。そのうちのひとり、Yさんは労働センターが彼女に適した仕事を用意できずに、畳のすり切れた事務所らしきところでごろごろしていました。
選挙がはじまり、路地の向こうの表通りから街宣車の音が聞こえると、彼女はガバッと起き、そそくさと真っ赤な口紅を塗りはじめました。次の瞬間信じられないスピードで表通りに駆け出し、「頑張って」と街宣車に手を振ります。そのあまりにも熱烈な応援に街宣車も「応援ありがとうございます」と運動員が思わず握手を交わし、街宣車が遠ざかるまで、彼女は手を振り続けます。そしてまた横になっていると別の候補者の街宣車がやってきて、彼女はまた表通りの街宣車の運動員と握手を交わし、「頑張って」と手を振り続けるのでした。次から次へとやってくる各候補に応援し続ける彼女はとてもはつらつとしていて、とても元気で充実した1週間を過ごしたのでした。
わたしは大きな音量でやってくる街宣車に正直のところうんざりしていたのですが、彼女の行動を目の当たりにして、彼女が長い間指導される対象でしかなく、ひとりの女性として誰かに声かけられることがなかったのだと知りました。ほんとうに各候補者の方々には申し分けなかったのですが、どなたでもよかったのです。だれかに頼まれる、あてにされているという初めての経験に酔いしれている彼女がいました。
わたしたちはこの経験から彼女がお店に向いていると考え、たこ焼きと衣料品のお店「ふだんぎや」を開きました。労働センターの最初のお店でした。その後の彼女は、おそらく膨れ上がる夢と希望に労働センターが追い付かなくなり、去っていきました。とても大きな宿題を残して…。
わたしがこのエピソードを書いたのは、SNSなどコミュニケーションツールが増殖しても、あの時の彼女の孤独、誰一人自分を必要とするひとがいない寂しさ、誰かに話しかけてほしいというせつなさは、今後デジタル化が進めば進むほど、年代を問わず増え続けると思うからです。
そしてまた、その孤独と向き合い、寂しさとせつなさに届くものがあるとしたら、高度成長の夢を追い続ける人たちではなく、中西とも子さんたちの「動く伝言板」や「福祉の出前」、里山のおしゃべりに耳を傾けるひとたち、そして、誰ひとり取り残さない街を本気でつくろうとする住谷のぼるさんたちの他に誰がいるのでしょう。
すでに期日前投票を済まされた方もいらっしゃると思いますが、今度の日曜日、投票用紙の小さな紙きれに、あなたとこの街の未来を描きませんか?

忌野清志郎「IMAGINE」

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