一枚の絵が、秘密の扉を開ける…。村上春樹の小説「騎士団長殺し」は救済の書

 村上春樹の小説「騎士団長殺し」を読みました。2017年2月に発行されたこの小説は彼の14作目の小説で、話題になった「1Q84」から7年ぶりの長編小説です。
わたしは村上春樹が好きで、ずいぶん昔に娘に「ノルウェイの森」を勧められて以来、ほぼすべてハードカバーを買って読んできましたが、「騎士団長殺し」はハードカバーを買わないまま時が過ぎ、文庫本が発行されてからもしばらく手に取ることができませんでした。昨年の暮れ、ようやく文庫本の4分冊を買い、わたしとしてはめずらしく一気に読み終えることができました。
 村上春樹といえば大ファンとアンチ派と見事に分かれ、わたしの友人の間でもどちらかと言えば嫌いという人が多いのですが、わたしは俗に言われる「ハルキスト」というほどではありませんが、大げさに言えばこの人の小説が国内外の数多くの老若男女に読まれている間は、まだ世界は大丈夫かもしれないと思っているのです。

 主人公の「私」は36歳の画家で肖像画を描いて生計をたてていたが、「私」はある日、妻・ユズに理不尽に離縁を申し渡される。いたたまれなくなり家を出た「私」は車で北海道と東北を放浪したあと、小田原の山中にある孤高の日本画家・雨田具彦の家に仮住まいする。雨田具彦は美大時代からの友人・雨田政彦の父で、その縁から借りられることになったのだ。雨田具彦は認知症が進み療養所に入っており、彼のアトリエは空き家になっていた。
 「私」は、アトリエの屋根裏に隠されていた雨田具彦の未発表の大作を発見する。「騎士団長殺し」と題されたその絵は飛鳥時代の恰好をした男女が描かれ、若い男が古代の剣を年老いた男(騎士団長)の胸に突き立てており、胸から血が勢いよく噴き出し、白い装束を赤く染めている。その様子を若い女性と小柄でずんぐりした召使いの若い男が傍観している。さらに画面の左下に地面についた蓋を押し開け首をのぞかせ、顔中が黒い鬚だらけで髪がもつれた男(顔なが)が、構図を崩すようなかたちで描き込まれている。
「私」は年老いた男がモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」における「騎士団長(コメンダートレ)」、刺殺する若い男が「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」、若い女は騎士団長の娘「ドンナ・アンナ」、召使いはドン・ジョバンニに仕える「レポレロ」に相当すると推察した。
 「騎士団長殺し」の封印を解いたのと前後して、「私」は深夜に不思議な鈴の音を聞く。音の出所はアトリエ裏の雑木林の小さな祠と石積みの塚で、塚を掘ると地中から石組みの石室が現れ、中には仏具と思われる鈴が納められていた。
 日本画と石室・鈴を解放したことで、「私」はさまざまな事象が連鎖する不思議な出来事へと巻き込まれてゆく…。
 そして、この物語が 東日本大震災の数年前という時代設定であることを、わたしたちはこの物語の最後に知ります。

 石塚の穴、鈴、妻との突然の別れ、自分探しの旅で出あう女性、車、音楽など村上ワールド全開で、登場する人間も物も奇想天外な物語も嫌いな人にはマンネリと感じられるのでしょうが、熱烈なファンにとってはその既視感から今度はどんな物語が展開され、どこに連れて行ってくれるのかとわくわくするのでした。
 久しぶりに村上春樹を読んで改めて感じるのは、読んでいる間も読み終えた今も、小説で展開される物語がどんなに荒唐無稽に思えても揺らぐことのないリアリティーがあり、今わたしたちが生きている時代と、その中で生きるひとりひとりの人生を数少ない登場人物たちがもう一度生きなおすというか、あの時あの場所で、あたかも横尾忠則がよく描くモチーフ・Y字路で、わたしが選ばなかった道を歩いてきたわたしがその物語の中でもう一度生きなおすようなのです。
 ここでいう現実とは目に見える事実ではなく、たくさんのもうひとりの自分がたくさんのもうひとりの他者と出会い、時には愛し合い、また時には自分が生まれるずっと前の戦争があり虐殺があり、いのちを交換する異界であったりして、わたしたちが望んでも望まなくてもそれらの一切合切の総体としての現実があり、読み終えた後もその物語がわたしの心にへばりついたままなのです。
 村上春樹は当初は時代や社会とコミットしないといいましたが、そのころの刺激的な作品でさえ、極私的個人的な生き方が時代の暗闇と深くつながり、切り離せないことを暗示していました。
 そして、世界の表現者が多かれ少なかれそうであったように、彼もまた1995年の阪神淡路大震災とオーム真理教事件を経て、どんなに拒んでも時代や社会と切り離されて生きることができないことと、あらゆる表現がそこから再構築されることを自ら確認し、証明してきました。実際、あの未曾有の被害をもたらした地震の前まで刻んでいた時計に閉じ込められたままの「時」と、破壊しつくされた家々や町やほこりやがれきや無数の屍から立ち上る大きな悲しみと後悔と語られない記憶とともに刻み始めた「時」、わたしたちは2つの時の間を行き来しながら今にたどり着いています。
 そして、阪神淡路大震災とオーム真理教事件以来、日常と非日常、善と悪、「私」と「他者」、真実と嘘、対置するこちら側の世界があちら側の世界を、かつてのヨーロッパの「阿呆船」のように異質なものをすべて船に乗せて追放することが不可能になった今、私たちは村上春樹が扇動するもう一つの現実がわたしたちの日常に溶け込んでくるのを何度も何度も目撃するだけでなく、わたしたち自身がその物語の当事者になっていくのでした。

 ほんとうに久しぶりに小説を読み終えて気づいたのですが、わたしは村上春樹以外の小説をまったくといっていいほど読んでいません。というか、小説以外の本といえば阿久悠や松本隆などの歌謡曲関係や、寺山修司や唐十郎や平岡正明の本と、水野和夫、白井聡と何回もチャレンジして読破できないアントニオ・ネグリとマイケルハートなどで、その中で村上春樹の小説は純粋な小説体験ではなく、時代の記憶と予感を物語に仕組んだ、わたしにとっては思想書に近いものなのだとあらためて思いました。
 大衆的でわかりやすい文体と「ひらがなことば」で神話的で壮大な物語を生み出す彼の小説が芥川賞を受賞せず、また毎年騒がれるノーベル文学賞も受賞しないことは、却って彼の小説が世界中の若者たちに圧倒的な支持を受ける理由になっていると思います。それだけ彼の小説が過去のものではなく今を生きる青春の書でありつづけている証拠なのですから。
 わたしと2歳違いの村上春樹がこれから何冊の小説を世に出すのかわかりませんが、少なくとも同時代のわたしにとって残り少ない人生の道しるべになることだけはまちがいないと思います。

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