映画「マイ・バック・ページ」・ ぼくの「マイ・バック・ページ」1

昨日、映画「マイ・バック・ページ」を観ました。この映画が上映されていなかったらまだ当分行くことはなかったと思う新しい大阪駅の映画館は11階にありました。映画館の雰囲気は広々とした空間で、大阪の街を見下ろす夜景が目に痛いほどでした。
しかしながら、できたばかりのおしゃれな映画館で60年代の風景にあふれるこの映画を観ていると、日本も、そしてわたしもほんとうに遠くまできてしまったのだと痛感しました、この映画の時間はそのままわたしが過ごした時間で、私は彼らとほぼ同じ時代に生まれました。そして、彼らがそうであるように、わたしもまた1969年から1972年を特別な時間として通り過ぎ、その後の長い時間を生きてきたのでした。といっても、わたしは学生運動や労働運動などに参加したことは一度もなく、またフーテンともヒッピーともちがう、ただの無職の若者でしたが…。

映画は東大安田講堂が映しだされるところからはじまります。
1969年1月、安田講堂に立てこもった学生と排除しようとする機動隊との攻防の顛末を、テレビのブラウン管が映していました。実際はありえないところですが、すでに廃墟と化した安田講堂から松山ケンイチふんする梅山(本名片桐)が現れます。
観ているわたしたちにはこの映画の始まりが、すでにある時代の終わりであることがわかるのですが、この青年にとっては時代のはじまりでした。彼は安田講堂に籠城した学生運動の闘士たちにあこがれ、自分こそがかれらの跡をひきつぐ「ほんものの革命家」になることを決意するのでした。
もうひとりの主人公の駆け出しの雑誌記者・沢田の場合は、同じ安田講堂の攻防を安全な場所で「見学」していました。彼は学生運動の闘士達に心情的にも思想的にも傾倒しているのですが、傍観者でしかないことにいら立っていました。そして、フーテンや暴力団の使い走りを潜入取材した記事を書きながら、いつか「ほんもののジャーナリスト」になり、自分の記事でこの社会を変えたいと願い、衰退していく学生運動の中から現れる「ほんものの革命家」を待ち望んでいたのでした。
この二人の出会いは、時代の波がすっと退いていく中で、それぞれの欠如をそれぞれの幻想で埋め合わせるような出会いで、川本三郎の原作を読んでいるひとならすでにその結末がわかっているのですが、そうでなくても二人の出会いが幸せな出会いでないことがわかってしまい、これから起こってしまう事件すら予感できるのでした。
この映画は、あの時代に当事者であったひとたち、学生運動や安保闘争などに参加した人たちには受け入れにくいかもしれません。
なぜかというとこの映画はわたしのように、あの時代に身を置きながら「なにかしたい」と思いながら「何もできなかった」ひとたち、そして、1969年を境にして急速に世の中が高度成長のペンキで、あれよあれよという間に塗り替えられていく時代の風景に戸惑いながら走ってきたたくさんの「なれなかったひとたち」にこそ届けられた映画なのです。
そんなわたしの、「マイ・バック・ページ」のはじまりです。

部屋の中はまだ暖房の残りで暖かそうでした。外の風は冷たく、窓ガラスは外気との温度差で曇っていて、部屋の中は楕円形にくりぬかれていました。
コタツの上にはみかんや、イタリアンサラダの食べ残しの大皿、煮しめが入ったお重、そしてなべが見えました。ついさっきまで人がいたらしい部屋の中はちらかっていました。
その部屋はともだちの部屋で、その日ぼくの数少ない友だちが5、6人、ぼくを待っていてくれるはずでした。
ぼくはといえばあまりの寒さにかばんに入っていた洗濯物の靴下を両手に履き、長い間部屋の中を覗き込んでいました。1969年の正月、ぼくは22才になっていました。

このときぼくは風邪をこじらせていました。ほんとうならもっと早くに吹田駅前裏にあった自分のアパートに帰るところだったのですが咳がひどく、熱もいっこうに下がらない状態で、摂津市千里丘の実家でずっと寝ていたのでした。
この家を早く出たいと、高校生のころから思っていました。母と兄と僕の過ごした子ども時代からさよならをしたかったのでした。36才でぼくを生んだ母も、たったふたりきりの兄弟の兄もけっしてきらいではなかったし、むしろ子どもの頃から世間になじまないぼくをとても心配してくれていました。
でもぼくは、とにかくこの家から離れたかったのでした。父親がどんなひとなのかもわからない愛人の子。そのことでぼくたち子どもがひけめを感じないように父親と別れ、養育費ももらわず朝から深夜まで一膳飯屋をしてぼくたちを育ててくれた母。
その頃はそれもやめて、近所の工場の給食係として働き、少しでも暮し向きを良くし、自分が早くに死んだ時に息子たちが困らないように切ない貯金をしていた母。
どれだけ感謝してもしきれない、いとおしい母のはずなのに、わがままで自分勝手とわかっているのに、ぼくはそのことすべてからさよならをしたかったのでした。ぼくは不憫な子でも、母が苦労してよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。「立派になった息子といっしょに故郷に錦を飾る」のを生きがいにしていた母の悲しい夢をかなえることもできるはずがありませんでした。
ぼくは高校卒業を待ってすぐ、ともだちをたよる形で家を出ました。母は自立する息子のためにふとんをいっしょうけんめいつくってくれました。

どれだけ待っていたことでしょう。ともだちはいっこうに帰って来ませんでした。この日はとくに寒く、まして悪い咳が止まらず熱もあるぼくには、その寒さに耐える時間がそう長くあるわけではありません。
「血のつながった親兄弟と、あかの他人のともだちとどっちが大事やねん。どっちがお前を大切にしてるねん」。
寝間から起きようとするぼくの体を羽交い絞めにおさえて叫んだ母と兄。
「ともだちや」と叫び、「勝手にせえ、お前なんかもう知るか」と言った兄の声を背中に受けて家を飛び出してきたぼくは、もちろん実家に戻ることもできず、長い間留守にしていた吹田のアパートに帰りました。近所で買ってきたパンと牛乳をお腹に入れて、ぼくは布団を引いてもぐりこみました。暖房がなく、靴下はそのまま両手にしたまま眠りました。冷たかった。悲しかった…。
結局ぼくはそれから一週間以上も寝込んでしまいました。実家にも知らせず、ともだちとも連絡をとりませんでした。テレビもなく、ぼくをかろうじて社会につなぎとめていたラジオからは1月18日、東大構内の安田講堂に立てこもった全学共闘会議派学生を排除しようと、機動隊によるバリケードの撤去が開始されたことを伝えていました。

友部正人「一本道」

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