仲間恵子さんのお話「唄にきく沖縄」

先日、リバティ大阪(大阪人権博物館)の仲間恵子さんのお話を聞きました。能勢の自治会の関係でチラシが入っていて、浄るりシアターに行ってみました。
「唄にきく沖縄」というタイトルで、古くは琉球時代から沖縄戦争、そして今にいたるまでの沖縄の歴史を、その時代とひとびとの叫びや怒りやかなしみを映した唄を聴きながら、沖縄出身の仲間さんがご自身の体験を交えて語ってくださいました。
大阪で生まれ、大阪で育ったわたしは、65才になった今も沖縄のことを知っているようでほとんど知らなかったことにあらためて情けないと思いました。
1429年の琉球王国成立から1609年の薩摩の侵攻、1872年の明治政府による琉球処分、1945年の沖縄戦、1951年のサンフランシスコ講和条約によりアメリカ軍の施政権下に置かれ、1972年の沖縄返還と、学校の教科書で学んできたはずの沖縄は、観光でも沖縄を訪れたことがないわたしには紙に書かれた年表と数字でしかなかったのでした。
沖縄出身の仲間さんの淡々とした話を聞いて、紙に書かれた年表や数字の裏に何万、何十万、いやそれ以上のひとびとの流した涙、あふれた血、切り裂かれた心がどっと押し寄せてきました。とくに、沖縄戦争で亡くなった20万人のうち半数の10万人が一般の住民であったことは学校の勉強で何度も学習してきたはずなのですが、仲間さんのお話を聞き国の犯罪ともいえるこの悲惨なことが自分の町の自分と自分の友人たちに降りかかったことだとしたらと想像すると、とても理不尽なことであることを痛感しました。
そして、1972年の沖縄返還以後も日本の地方自治体としての正当な権利が踏みにじられ、米軍兵による暴行・強姦などの犯罪・事故が年間1000件におよび、基地に逃げ込めばその罪を問われない不当な現実が累々とくりかえされています。
いま、日米政府の合意にもとづき、国は普天間基地の移設先に予定されている名護市の辺野古の埋め立て申請を沖縄県に申請し、沖縄の市町村が反対を表明していますが、これらの現実が日常になっている沖縄のひとびとが普天間基地の移設先を県外に要求することは、虐げられてきた長い歴史から見て最低限のささやかな願いであることを身に染みてわかりました。
わたしは長年障害者の働く場づくりに参加してきた関係で、いろいろな人権講座や講演会を聴く機会が多くありましたが、今回のように唄を切り口にしたお話は少なく、その中でも沖縄民謡などの伝統音楽にとどまらず、沖縄出身の若いひとたちのヒップホップ、ロックなどのポピュラー音楽にまですそ野を広げたお話を聞くのははじめてでした。
とくに、社会的・政治的なメッセージと音楽そのものが持つメッセージとの相克に費やしてきたフォークやロックのポピュラー音楽から解き放たれ、沖縄の伝統音楽と新しい音楽的冒険、強烈な社会的メッセージと音楽的メッセージが融合するモンゴル800やHY、カクマクシャカなどの音楽が、世代を超えて語り継がれてきた沖縄の理不尽な歴史を今に伝えるメッセージであることを学びました。
沖縄は地理的に中国、台湾、東南アジア、そして日本との中間に位置し、昔から交易の中継点として栄えたことから、いろいろな民族、地域の文化をごちゃ混ぜに共存するという意味で「チャンプルー文化」と呼ばれています。それは異質なものがぶつかり、融合して生まれる「クレオール文化」ともいえ、いつも被支配層のひとびとが支配層の音楽を取り入れながら独自の新しい音楽をつくりだしてきたのでしょう。
モンゴル800やHY、カクマクシャカなどの音楽は古くにあったアジアのチャンプルーだけではなく、1945年から現在に至るアメリカの支配と抗うことで、新しいチャンプルーな音楽を切り開こうとしているのだと思います。
仲間さんのお話でもうひとつ教えていただいたのは、沖縄と大阪との関係です。1920年代にたくさんの沖縄の人々が阪神工業地帯に出稼ぎに来たというお話で、そういえばわたしが勤めていた会社に沖縄出身の人がいて、戦前は南大阪の紡績工場で働いていたという話を聞いていました。
その中に、1923年に20才で大阪に出てきた普久原朝喜(ふくばる ちょうき)がいました。1927年、自らも民謡歌手だった彼は妻とともに大阪西淀川区に沖縄民謡のレコード会社「太平丸福レコード」(現マルフクレコード)を設立し、多くの伝承音楽をレコードに記録しました。沖縄を離れ淋しい思いをしている出稼ぎの人々のために、彼は大阪在住のミュージシャンを集めて沖縄民謡のレコードを制作、販売しようと思い立ったのでした。
彼らの活動は、当時海外にも移住した沖縄のひとびとにまでレコードを届けながら独自の音楽を継承し、戦争で中断したものの戦後も沖縄音楽の復興を支えました。インディーズレーベルの先駆者ともいえる丸福レコードの活動は、音楽はそれを必要とするひとにこそ届けられる最高の贈り物であることをあらためて教えてくれました。
時代の悲鳴もひとびとの愛も、学校の教科書では学べないもうひとつの歴史も、ひとからひとへ海を越え国境を越え世代を越えて、歌い継がれ、語り継がれていくのですね。

大阪人権博物館(おおさかじんけんはくぶつかん、リバティおおさか)は、大阪市浪速区にある人権に関する博物館ですが、来年度から大阪市と大阪府の補助金を打ち切られることになり、大阪府・大阪市に対して補助金の継続を求める署名が24万筆を超えた一方で、来年度については企業・団体からのまとまった寄付金と、個人サポーターからの月額1口500円の支援金で維持していくことになりました。
一年間に3万人の人が自ら命を絶つ今の社会にあって、いままであると思っていた「人権」はすでにわたしたち市民の手の届かないものになっています。それだけ大多数の人々の心が傷つき、「なぜ自分だけ」と怒りを抑えながら生きていると言えます。他者への想像力を喪失し、ヒステリックに自分の孤立と向き合うしかなければ自分の人権も他者の人権も見失うしかありません。
多様な出自、多様な性、多様な民族、多様な文化が「チャンプルー」し、いろいろな人間が共に生き、助け合える豊かな社会をつくだすために、わたしたち市民も行動するとともに行政もまたその役割を果たすべきだと思います。

懐かしき故郷
戦前、戦後に民謡の名曲をたくさん世に出した普久原朝喜さんの作詞作曲です。
大阪にいた普久原さんが、沖縄戦で焼け野原となった故郷を憂う心情にあふれています。
カクマクシャカ「殺すな辺野古」
地元・ 沖縄に根を張り活動するカクマクシャカ。一定のジャンルに拘らず、加藤登紀子やshing02など世代もジャンルも越えた様々なアーティストとのコラボレーションを生み出してきました。またshing02と坂本龍一による「stop-rokkasho」 という青森県六ヶ所村の再処理工場に対してのプロジェクトに賛同、shing02ともに制作した楽曲「無知の知」 をホームページで公開しています。
モンゴル800「琉球哀歌」
1998年に沖縄県で結成された日本のスリーピースパンク・ロックバンドです。略称は「モンパチ」。代表曲は「Happy Birthday」、「小さな恋のうた」、「あなたに」など。「琉球哀歌」をもし政治的メッセージとしか受け取れないとしたら、それは沖縄の現実を直視できないからだと思います。沖縄の街の半分から8割が米軍基地である現実の中で沖縄の若者は恋をし、夢を見て、誰かのために何かをしようとしていて、彼らの歌はそんな青春の歌であると私は思います。仲間恵子さんのお話を聞いて、よりそのことを強く感じました。

リバティ大阪ホームページ
リバティ大阪は以前から知っていましたが、今回、仲間恵子さんのお話を聞き、存続のために何かしなければと思い、少ない支援金を送り、サポーターになることにしました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です