能勢で暮らして14年、難波希美子さんとの出会い

雨にも負けず風にも負けず、能勢の町を時には自転車で、時には歩きながら

 難波希美子さんとの出会いのことを書こうと思います。
 わたしは2011年、東日本大震災の年に能勢に移り住みました。さかのぼること1982年、大阪府箕面市の豊能障害者労働センターの設立に参加し、1987年から2003年までは専従スタッフとして活動しました。豊能障害者労働センターは障害者の所得をつくりだす活動を続けています。わたしが在職中しばらくは、ひたすら生活していけるだけの給料をみんなでつくりだすことしか考えていなかったのですが、阪神大震災の被災障害者救援活動をきっかけに全国の障害者のグループとのネットワークの大切さを学びました。また2001年のアメリカ同時多発テロとイラク戦争を経験し、平和で安全な社会をつくりだすためにどうすればいいのかと考えるようになりました。そして、ペシャワール会の中村哲さんたちの活動を知り、わたしたちの活動もまた、戦争や内紛で世界各地の人々のかけがえのない命が失われ、傷つけつけられる理不尽な現実とたたかう世界各地の人々とつながらなければと思うようになりました。

北大阪の里山・能勢から世界に、ピースマーケット・のせ

 能勢町に引っ越して、里山に囲まれ、豊かな自然が広がるこの町に圧倒されました。
 その頃働いていた被災障害者支援団体を4年後に退職したある日、新聞の朝刊に折り込まれた一枚のチラシがありました。そこには高齢者住宅に住む悲惨な戦争体験をしたひとりの老人からの「孫や次の世代に戦争のない平和な世界を残したい!!」という切実な願いが綴られていました。能勢の自然に囲まれてのんびりと過ごそうと思っていたはずのわたしは、そのチラシがきっかけで「ピースマーケット・のせ」の実行委員会に参加しました。「里山に抱かれた緑豊かな能勢で、平和を願うひとびとが集い、心と物と夢が行き交う市場を!」との思いを込めてフリーマーケットとグラスルーツな音楽と、厳しい世界からのメッセージをごちゃまぜにしたこの催しは、安保法制など時の政権が「戦争のできる国へと大きく舵を切った背景もあったのか、交通の便がよくないにも関わらず町内外からの参加を得て大きな催しになり、コロナで中止になってしまいましたが2019年まで4年間つづけて開催しました。
 難波希美子さんは当日の司会進行のみならず、準備の案内板や飾りつけのあれこれを2人の友人とすべて作ってくれました。そのプロセスの中で、使い捨て容器やビニール袋などのごみを出さないための対策など、様々な話し合いがづけられました。
 彼女たちは自然環境や反原発、平和活動などで以前からの友人らしく、そのこだわりは並々ならぬ迫力で、わたしは理念ではわかっていてもそれほどのこだわりをもっていなかったことに、自分の不明をはずかしく思いました。世界の平和への願いと自然環境を守り育てることはひとつのことで、わたしたちひとりひとりがまずできること、しなければならないことを実行し、参加してくれるひとびととその体験を共有することの大切さを学びました。
 ずいぶん年月が経ち、わたしたちの願いとはまったく反対方向に世界も日本も突き進んでいる恐怖を感じます。しかしながら能勢の地で生まれた平和への願いは能勢の里山を守り育てる農林業のひとたちやぽつりぽつり増え続ける里山CAFEなど、地域にこだわりながら希望の音楽を奏でていると思っています。

高度経済成長が壊した自然は取り戻せないかもしれないけれど、自然と向き合い、自然を育てる地域経済は復活できる

 高度経済成長を経て1968年から約40年間、世界第2位だった経済大国から脱落して15年、人口減少と「成長しない経済」の直撃を受けるのは、たしかに都会よりも地方経済で、企業誘致によって賑わいをとりもどしたとされる町に刺激され、高速道路が付近に出来たことなどから能勢町でも企業誘致をすすめようとしています。
 しかしながら、そもそも今の時代では経済成長は限られた領域での富の偏在と少なからずの貧困を生み出すことにもなっています。少子高齢化、人口減少、防衛費の増額と社会保障の行詰まり、物価高で良くならない暮らし、気候危機など課題は満載で、世界が抱える困難な現実もあります。経済成長を促し、人口減少を食い止める努力が政治に求められることなのでしょうが、一方で止められない人口減少に合わせた地域経済やわたしたちの暮らしのあり方、未来社会の姿を探し、つくり、育てる政治もまた必要なのではないかと切実に思います。
 振り返れば、戦後の人口爆発と国策でもあった高度経済成長の下で地方の町村から人口が流出し、東京をはじめとする大都市に集中しました。それまで自然とのかかわりの中で育まれた農業、林業、畜産業、漁業など豊かな自然の恵みを生かす経済は、減反政策に代表される国策によっても破壊されてきたとも言えるでしょう。

わたしたちの望むものはすぐに手にすることできないけれど、その望みがいつか能勢を未来する

 幅広い活動と能勢の人々との出会いから、難波希美子さんは4年前、企業誘致を進めるのではなく、農林業を担う人々によって守られてきた里山資源を守りたいと願い、能勢町議会議員選挙に挑戦しました。住民主役、環境保全、農林業振興を求めた訴えは、当時コロナ禍で目の前の生活が困難になる中で能勢町民に届き、彼女は町議会議員になりました。
 この4年間、能勢のひとびとのさまざまな想いを届け、かけがえのない自然資源を次の世代に残すために走り続け、1か月に一度「なんばきみこ便り」を発行し、能勢町内の新聞折込と別に手配りを続けてきました。
 難波さんと知り合って多くのことを学びましたが、何よりも彼女は能勢の町が大好きで、大好きだからこそ、能勢のかけがえのない自然を子どもたちに残したいと願う、そのまっすぐで率直で純粋な心に惹かれます。4年の間にはコロナ禍のさなかで自粛の波が押し寄せ、心まで硬く縮ませる日々が続きました。その波は子どもたちにも及んでいます。この町の、この社会のすべてのことにアンテナを張り巡らし、宮沢賢治の詩のように「雨にも負けず風にも負けず」、能勢の町をときには自転車で、時には歩きながら、道ゆく人とも何時間も語り掛け、そのひとの悲しみや憤り、能勢の町への希望と絶望を聞き続けることのできる難波さんに、「ああ、このひとはこのように能勢の自然の声を聞き続けてきたのだ」とつくづく思います。自然のまったなしの悲痛な叫びを聞くことと、この町で暮らすひとびとの涙を受け止めることは、心の地平線でつながっているのでしょう…。
 そのことを痛いほどわかっているから、わたしたちは武器を持たない「たたかい」に臨みたいと思うのです。今はまだ働く場が限られていて、都会に出ていくしかないかも知れないけれど、いつか戻ってくることになるかも知れない子どもたちと、都市近郊で農作物の市場に近いことで移住されるかもしれない新規就農のひとたちに、「お帰りなさい。こんにちは、ようこそ」といえる里山能勢の町であるために…。