鶴瓶さんと難波さん  能勢ルネッサンス 難波希美子とともに

もうずいぶん前、阪神淡路大震災の2、3年前だったと思います。
設立されたまだ日が浅かった箕面市障害者事業団の学習会に牧口一二さんが招かれた時のことでした。大阪の地下鉄にエレベーターを設置する運動など、障害者運動の創成期を担い、今も現役で活動されている牧口さんはわたしが在職していた豊能障害者労働センターの代表だった河野秀忠さんの親友で、河野さんを通じて箕面の人権講座やイベントにたびたび招かれていました。わたしも長い間お付き合いさせていただき、東日本大震災の時は2016年まで、牧口さんが代表理事をされている被災障害者支援「ゆめ風基金」で働いていました。
その日の学習会で、「この話をすると、鶴瓶さんを変に持ち上げることになるかもしれないけれど」と、ある出来事について話をされました。
障害者問題の番組にたびたび出演していた牧口さんにある夜、NHKから今すぐ来てもらえないかと連絡が入りました。当時NHKで若者がやってみたいことを体験し、その報告を受けながらスタジオで鶴瓶さんを囲んで若者たちが対話する番組があり、「車いすを利用する障害者と一日旅を経験する」というテーマで鶴瓶さんと話が折り合わず、牧口さんにアドバイスが欲しいというのです。
牧口さんがNHKに駆けつけると、激高する鶴瓶さんと担当ディレクターが大声でやりあっている最中で、彼は部屋の隅でその言い合いを聞いていました。
「ぼくは障害者のこと何も知らへんのに、そんな番組をやったらまるでぼくが障害者のことに理解がある人間と思われてしまうやないか。そんなうそのイメージ広めとうない」と言う鶴瓶さんと、番組を実現したいディレクターの言い合いは平行線で埒があかず助けを求めるようにディレクターが「牧口さん、どう思いはります?」と尋ねました。
「鶴瓶さんのお話はもっともと思いますが、一方でわたしたち障害者はいつもそのように特別な存在、配慮しなければならない存在とされることで、世の中や社会から排除されてきたのではないかと思います。そんなに身構えないで、また番組がどうなるかとあれこれ考えず、ごく当たり前の人間として同世代の若者たちの一日の体験で感じたことをみんなで共有出来たら素晴らしい番組になると思いますよ」。
それを聞いた鶴瓶さんは、「あっ、そうか、そうなんや。お互いにありのままを受け入れたらいいんやな」とあっさりと承諾し、番組の企画を進めることになりました。
さて、番組収録の日、100人ほどの若者たちが集まる中、まずは車いすを利用する障害者と5人の若者たちの一日旅行の様子がビデオ上映されました。当時はまだバリアフリーになっていない駅も多かった時代で、段差や階段は4人がかりで上がり降りするシーンもありました。その後、鶴瓶さんが体験した若者からの報告を聞いていくのですが、最後に障害を持つ若者に話を聞こうとしました。
その時でした。彼の介護者が話そうしたら、「あんた(介護者)に聞いてるんやない。あんた(障害者)に聞いてるんや」と、鶴瓶さんは強い調子で言いました。
「あんたと直接話したい」とする鶴瓶さんに、本人は体をねじり、絞り出すように話そうとするのですが、なかなか言葉か出てきません。実は重度と言われる脳性まひで言葉が聞き取りにくく、付き合いの長い介護者でも会話に時間がかかるので、あらかじめ本人が長い時間をかけて介護者に伝えたものを代弁することになっていたのかもしれません。
しかしながら、彼の想いを直接聞きたいと思う鶴瓶さんは納得しませんでした。長い沈黙の間に単発的に放つ彼の言葉を聞き取ろうとするのですが、まったく何を言おうとしているのか、鶴瓶さんのみならず会場にいる若者たちも、また後日に放送された番組の視聴者であるわたしたちにも、残念ながらわかりませんでした。
「ほんとうにごめん。ぼくにはあんたの言ってることがわからへん。もう一度言ってくれへんか」。こんなやりとりが何度かあり、とうとう本人が介護者に伝えてくれと大きなゼスチャーで指示するのを見て、「ごめんな、ほんとうに彼から話してもらっていいんやな」と謝りながら介護者の若者に話してもらうことになりました。
その間のやりとりから、「わたしたちは日本語で話してるんだから、通訳も代弁も必要ない」と強く主張した障害者運動の先人たちの言葉の意味を改めて学びました。
あらかじめ用意されたストーリーを受け入れず、行き当たりばったりのアナーキーな出会いを求める鶴瓶さんの感性はその後、1995年から始まったNHKの長寿番組「鶴瓶の家族に乾杯」へと引き継がれていきました。

実はこの話を書いたのは、能勢町議会議員選挙の最中で、わたしは難波希美子さんのことをおひとりでもおふたりでもわかってもらうにはどうすればいいのか考えていました。
彼女と知り合い、たくさんのことを学ばせてもらいましたが、同時にあまりにも歩いてきた道が違いすぎて、実際のところ今でもなかなかわかりあえないところも多々あります。
しかしながら、今はわかりあえなくても、学校で学んだだけの標準語では決して語られることがない自然が届けてくれる生きとし生けるものたちのざわめきやつぶやきや悲鳴やはげましを聞き、言葉にならない「伝えたい、分かり合えたい」と思う気持ちがあれば、いつかひとびとの心はつながっていくとわたしは思います。
あらゆる偏見やあたりまえと言われるものから解き放たれ、限りなく開いた心にふつふつと湧き上がる瑞々しい言葉たちがかたくなな社会の扉をゆっくりと開く時、時代もまたゆっくりと動き、愛おしい未来を用意してくれる…、その時に流れる涙はうれし涙!
わたしが難波さんの選挙にかかわったのは成り行きからともいえるのですが、難波さんの自然へのこだわりが、それどころではない困難なくらしを強いられているひとびとには耳障りでしかなく目先の選挙では不利なものであっても、能勢の将来を考える時、自然を守ることが次の世代の暮らしを守ることであると私も思うからでした。
そしてまた、わたしは告発型の行政批判よりも、行政と住民が協働して施策を選択し、失敗したときは共に認め、また新しい道を一緒に考えるような「まちづくり」になっていったらと願っています。もちろん、それが理想論だといわれることもわかっていますが…。
議員になった難波さんはこれまでの慣例を重んじる議会のさまざまなあつれきや不協和音、場合によって注意勧告なども受けるかもしれません。しかしながら、これまでの予定調和的ではなく議会が活性化し、また難波さん自身もほんとうに大切なものを実現するために能勢の住民のたくさんの願いを受け止め、環境保全から住民の暮らしにまで視野をもっと広げた議員になってくれると信じています。

うれし涙が流れる時まで、わたしたちはみんな旅人です。

小室等「 いま 生きているということ 木を植えよう 」
作詩・谷川俊太郎 作曲・小室等

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