Sさんの死

共に生きることは道徳ではなく、ひととひとが出会ううれしい好奇心と勇気を育てること
Sさんが亡くなりました。とてもさびしく、かなしく思います。
Sさんと知り合ったのは、9年前、豊かな農地を壊して企業誘致を進める能勢町の施策に反対し、能勢の自然を守ることが未来のための財産になると訴えて、難波希美子さんが町議会議員選挙に挑戦した時でした。「障害」を持つひとでしたが、ずっと以前から能勢町森上界隈では人気者で愛されたひとで、自分の生き方をしっかりと主張できるひとでした。人懐っこくて親分肌で、たのまれたら断れない、とても頼りがいのある人だったと思います。その分、お互いさまで彼が困っていることを一緒に解決してくれる友人にも恵まれていました。
しかしながら、その日も地域のお祭りでたのまれていたらしいのですが、意識を失ったのかどうか、わたしは知らないですが、すぐに救急病院に運ばれ、その後転院を経て精神科の病院に移され、しばらくして亡くなったということでした。
わたしは1982年に箕面の障害者市民運動にかかわり、それから33年間、障害者問題にかかわる仕事をしてきました。その中でも何人もの障害者と別れを告げてきましたが、その中にはもう少し違うかかわりがあれば生きて一緒に人生を過ごしたかもしれない人たちもいました。
豊能障害者労働センターの元代表で、全国的に障害者解放運動の行く手を切り開きながら人生を走り抜けていった河野秀忠さんがいつもつぶやいていた言葉を思い出します。「ああ、また間に合わなかった…」。
おお、季節よ城よ、無傷な心がどこにある
もとより、ひとの一生はそのひと自身のもので他者や社会によって左右されるものではなくもまたそうであってはならないのもまた正しい事なのだと思いますが、障害をもつひとと社会のありようを色濃く反映する医療と福祉制度の間には、深い溝があると感じてしまいます。
津久井やまゆり園事件から10年たった今も、障害者の命をうばったあの殺傷事件の加害者の背後に障害者を差別する社会が厳然と、より強固にあることは間違いないと思うのです。それを示すのは、被害者の人権が「どんな命にも尊厳がある」という「こうであらねばならない」という言説で語られたり、あれから少しは福祉が進んだがまだ十分でないとかいう言説で片付けられてしまうことです。なによりもあの事件が隔離された居住施設で起こったことから、わたしたち、「町のひとたち」の日常とはかけ離れた施設主義自体に問題があることがわかっていても知らないふりをしている社会もわたしたちも加害者の犯行に手を貸してしまったのではないかと問われなければならないと思います。
能勢に移り住んで15年の間、難波希美子さんや能勢農場、能勢産直センターの人たちに農業のことを学び、それは私の全く知らないことでしたので、とても意義のあることでした。
しかしながら、障害者とかかわる活動はまったくできないままでした。箕面や大阪市と違った里山での取り組み方や働きかけが求められる中、そのとっかかりを探すことができないまま、それを実行する勇気も気力ももう残っていないことを実感します。
振り返れば若かった33年の間、障害者問題とかかわれたこと、とくに箕面の豊能障害者労働センターで見果てぬ夢を追いかけ、障害を持つひとと周りのひとたちと議論し、やりたいと思うことができた33年間の時と居場所と友情を持てたことが稀有のことだったこと、そのすべてに感謝します。
Sさんの生活・人生をひとりやふたりでささえあえることは難しくても、日常的にも制度的にも当事者を中心にした居場所があり、そこを拠点に行政サービスを要望していく受け皿があれば、Sさんが病院でなくなってしまうことはなかったのだと思います。


