妻の母親が亡くなりました。

私事ですが、妻の母親が4月18日の朝に亡くなりました。91歳でした。
義母のことはこのブログで何度も書いてきましたので、報告させていただきます。
3月28日に川西市立病院に救急搬送されましたが、胃腸炎ということで家に帰され、食べ物を受け付けなくなる一方なので急遽、能勢町東診療所の先生に往診してもらい、訪問看護とホームヘルプを週に2回ずつ来てもらう手配ができてすぐのことでした。 いよいよ食べることも水分の補給もできなくなり、再度お医者さんと訪問看護師さんの手配で川西市多田のベリタス病院に救急搬送された時点で、母の命はすでに生きる気配をなくしていたのでした。
ほんとうにあっけない最後でしたが、一方で緑地公園近くの家に一人暮らしをしていた60代後半から認知症になり、約25年という長い時間をたたかうように生きてきた果ての往生とも言えます。
わたしたち夫婦が箕面に住むようになったのが1984年、2人の子どもがまだ小学生の時でした。1991年、上の娘が短大に入学する時に義母の隣の家に間借りさせてもらい、それとなく義母の様子を見てくれていましたが、彼女が卒業して東京に就職した頃から様子がおかしくなっていったようです。
1996年に息子が家を出て京都で下宿するようになり、しばらくはわたしの母が家にいて、1997年に母を見送ってからは、妻が週に2回ほど通うようになりました。
そして、いよいよ一人暮らしは無理になり、2001年だったと思うのですが箕面市西小路に少し大きめの家を借りて義母と同居するようになったのですが、妻もまだ働いていてヘルパーさんに来てもらっていたのですが、緑地公園の自分の家にたびたびタクシーで行っては帰りの箕面の家がわからないということがありました。
そこで、わたしたちが緑地公園の義母の家で同居するようになったのが2003年の暮れのことでした。
2001年からの2年間ほどの箕面での行動がうそのように、義母は急に寝ている時間が増えはじめ、帰りたがっていた家に帰れてホットしたのだろうと思いましたが、実はその頃から体の方も少しずつ動かなくなっていったのでした。
桜とコスモスが好きで、春には桜の名所でもある緑地公園に何日も行ったものですが、年々歩けなくなり、やがて外出の時に車いすを利用してもらうようになりました。
わたしとちがって自分の死生観をきっちりと持っている妻は、すでにこのころから義母が在宅で過ごすために長い計画と準備をすすめていきました。ですから、要支援から要介護度5になるまで、途中でわたしたち自身の人生もあって2011年に能勢に引っ越してもなんとか在宅で過ごしてきました。実際、老人施設に入る方が幸せだったのか在宅でよかったのかは義母にも妻にもわからないというのが正直なところでしょう。
ただ、能勢に来てからは優れたケアマネージャーやデイサービス・ショートステイ事業者に恵まれたことで、これまで3回ほど命が危ない事態も乗り越えられ、また最後の最後で能勢の在宅医療、訪問看護、ホームヘルプと、実際のところ緑地公園周辺の都会よりも、義母にとっては充実した福祉・医療サービスに見守られていたのだと思います。

ここからは「おかあさん」と呼びますが、お母さんの人生はおおむね4つの時代がありました。大阪大空襲で命を落とす寸前に助けられた戦前、戦中の娘時代。お父さんと結婚し、お父さんが始めた会社を必死で支えた戦後。その会社が軌道になり、社長夫人として豊かな暮らしを手にした時代。そして、わたしたち夫婦と同居し、自分の心と体が思うようにいかなくなった最後の25年…。
正直に言うと、社長夫人だったころの彼女はやや鼻持ちならない「成金」趣味にやや辟易することもありましたが、根っこのところでは大正区三軒家から中津のガード下をへて豊中庄内と、大阪の下町で苦労してきた庶民的な人でした。
かつて寺山修司は「人は不完全な死体として生まれ、完全な死体となって死ぬ」といいましたが、彼女と過ごした25年はほんとうにわたし自身の老いや死と向き合うことになった25年でした。
その意味において、おかあさんに「ありがとう」と別れを告げ、いよいよわたしのラストステージが始まったのだと思います。
ほんとうに、久しぶりの妻と二人だけの静かな暮らしにやや戸惑いながら、新しい一歩を踏み出そうと思います。

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