しあわせになるためにうまれてきた

満開の桜に目をうばわれているうちに、木々の若葉がすきとおった緑を点描し始めています。
雨が降ると、その若葉に一つずつ雨の玉が乗っかって、キラキラ光輝いているのを見ることができます。
被災地で、残された桜が開花しはじめていると聞き、待ち望んだ北国の春が今年ほど残酷に思えたり、また一方でそれでも春がくることに救いを求めたり、複雑な思いでいます。

今日は仕事を休んで、一ヶ月後に生まれる予定の孫のベッドを組んだり、部屋の模様替えをしに夫婦で娘の家に行きました。娘は障害を持つ夫とともに人工授精を試みて何度か失敗したらしいのですが、これが最後の挑戦といっていたのが受精に成功したのでした。高齢出産ということもあり、心配しましたが、なんとか今日まで順調に来ました。
部屋の模様替えが終わってから、胎内の子ども映像を映したDVDを見ました。時代が進んで、男か女かがわかるだけでなく、超音波で撮影した胎児の映像までかなりはっきり見えるのにびっくりしました。一方で、医療技術の発達が、障害者への差別をより深めるのではないかと不安も持ちました。家に帰ると脳死と判定された子どもの臓器移植が報じられていました。原発の問題もふくめて、科学技術は共に生きる社会を実現することをすすめるためにあるのか、それを阻むためにあるのか、わたしたちは考えなければいけないと思いました。

そして、生まれようとする胎児の映像をみていて、だれもがこうして生まれてきたのだと思いました。そして被災されて亡くなった方々のひとつひとつの命がかけがえのないものだったこと、そのひとつひとつがしあわせになるために生まれてきたのだと思い、あらためて哀悼の意でいっぱいになりました。

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