能勢に引っ越しました。

7月15日、大阪府吹田市から大阪府豊能郡能勢町に引っ越してきました。14日からずっと引っ越しの準備と、こちらに来てからの片付けで、ばたばたしていました。
けれども、妻の方は約1か月前から引っ越しの準備をしていて、この日を迎えるまでに相当大変な作業をつづけていました。妻にはとても申し訳なく思っています。
さて、当日はいつもほんとうにお世話になっているOさんと、高校を中退して豊能障害者労働センターの仲間になり、いつのまにか30半ばのおとなになったけれどもわたしには若い友人Iさん、そしてOさんの仕事仲間のHさんが家具や荷物を運んでくれました。
猛暑の中、吹田から能勢までの長い距離を2回車で運んでくれて、やっと解決しました。無理をお願いしましたOさん、Iさん、Hさん、ほんとうにありがとうございました。

ふりかえってみると、今回で10回目の引っ越しになりました。高校卒業してすぐに大阪市の岸里のアパートに友だちと3人で暮らすことになりました。そこから出発したといっていいわたしの人生は、約50年の年月をへて、ここ能勢にたどりついたのでした。
高校卒業から4年間、映画「マイ・バック・ページ」で描かれた時代の夜をくぐりぬけた、決して明るくはなかった青春の時、それから18年間の工場勤め、そして豊能障害者労働センターと出会い、第2の青春といえる心燃やす日々を過ごしてきた今に至る24年間と、わたしの人生は子ども時代をはぶくと大きくこの3つの転機で分けることができます。誰もがそうであるように、わたしの引っ越しは人生を変えることになった転機と重なっていました。

一つ目はまさしく、家からの脱出でした。全てを拒否する若さから、自由をたよりにとにかく家を出たかった。ほんとうは世の中がこわくて他人がこわくて、とにかくここから逃げ出したかっただけだったのに、寺山修司の「家出のすすめ」とアンドレ・ブルトンの「ナジャ」とサルトルの「存在と無」をカバンに入れて、大阪南の心斎橋あたりをただ金もなくふらふらと歩きながら、学生運動の集団がアジ演説をしていると、「あんたの言う人民に俺は入っているのか」と議論をふっかけ、大阪キタの繁華街の路地裏の「ゴーゴー喫茶」や大阪で最初にできたらしいライブハウスやコルトレーンやマイルスをリクエストしたジャズ喫茶に入り浸っていました。
そのたった4年ほどの間でも大阪市から吹田、豊中市と引っ越しました。このころは荷物もなく、吹田に引っ越した時は、(2年前に亡くなった)K君の働いていたお店のマスターが車の運転をしてくれて、深夜の2時に音と声を出さないように物を運び、まるで夜逃げみたいでした。

二つ目は、そんな青春時代が終わり、よくも悪くも大人としてかろうじて世の中との折り合いを探しながら働きはじめ、結婚し、子どもを育てた年月でした。
70年安保の後、多くの若者がそうであったように、政治的な運動とかかわらなかったわたしにとっても時代の空気の変化にとまどいながら、おそるおそる歩きはじめました。
友だち6人でひっそりと暮し、将来は会社をつくろうという甘い夢はくずれ、一人去り二人去り、最後に残ったのがわたしと妻とK君でした。私と妻と結婚するために妻の父親の会社に入り、K君も同じ会社に入りました。
わたしが入ったころはその会社は新卒で入ったひとはゼロで、福岡の炭鉱から一家ごと流れてきたひと、泉北の繊維工場からやってきた沖縄のひと、社長の親戚で、すなわちほたしの親戚でもあったのですが、和歌山で仕立屋をしていたけれど商売が上手く行かず、弟子ごとやってきたひと、親戚の不孝を言い訳に何回も仕事を休む元自衛官など、それまでわたしが出会ったことのない人たちがもくもくと仕事をしていました。
わたしは不器用で、最初はなかなか工場勤めになじめず、入ったころ何回もK君にひきずられながら会社に行ったものでした。
それでも、わたしはこの工場のひとたちに、「生きるとは何か」を学びました。若いころにカバンに入っていたマルクスもサルトルも教えてくれなかった(わたしが学びとろうとしなかった)世の中のこと、他人の気持ち、働くということ、そして愛するということ…。彼女たち彼たちは巷の教師のような存在で、世間知らずで対人恐怖症のわたしに「人生」そのものを教えてくれました。おそらく映画「マイ・バック・ページ」の主人公が、映画のラストシーンの焼鳥屋から「ほんとうの人生」を歩き始めたように、わたしも不器用ながらもそれからの18年を歩き始めたのでした。

そして、三つ目は豊能障害者労働センターと出会い、小泉さんや梶さんと出会ったことでした。
1982年春に活動を始めた豊能障害者労働センターの事務所は、前に書いたと思いますがその頃で築30年の横溝正史の小説に出てくるような空き家を片付け、クモの巣を取り、割れたガラス窓をガムテープでふさいでなんとか使えるようにした所で、路地裏の行き止まりの、これぞ袋小路とよぶにふさわしい家でした。
台所の床はいまにも落ちそうでしたし、冬は冷蔵庫に入れないと飲み物が凍り、事務所の中では外よりも一枚ジャンパーを羽織らなければとても寒くておれない所でした。
天井からたよりなく垂れ下がる曇った電球の光はぼんやりと広がるだけで、いっこうに明るさというものからはほど遠いものでした。
それでも、不思議だったのは小泉さんも梶さんも、底抜けに明るいということでした。わたしはまず、その明るさに戸惑いました。障害者と接したことのないわたしは身構えていて、それでなくても対人恐怖症ですから心を固くしておそるおそる事務所に入ったのですが、小泉さんの「ど、ドーモ」と梶さんの笑顔に誘われ、冷静に考えればとんでもなく悲惨な空間なのに、なぜかとてもなごんでしまったのでした。
今から思えばそれもそのはずで、今でこそ制度とかサービスとかいうけれど、そんなものがまったく存在しない中で、彼ら「脳性まひ」といわれる二人の少年は、ほんとうに信頼にたるかどうかもまだわからない友情だけをたよりに、自立に向かって一歩を踏み出したばかりだったのでした。
ですから暗闇に等しいようなこの空間こそが、こぎれいで明るい他の福祉施設のどこを探してもみつからない明るい未来につながる砦だったのだと思います。だから、わたしのような生きることに不器用なひとたちもその空間に入ることができたのだと思います。
それから5年後、40才になったわたしは会社をやめて豊能障害者労働センターのスタッフにならせてもらいました。それから16年は、夢のような年月でした。もっとも夢には悪夢というものもありましたが、その悪夢こそがまたわたしの人生を豊かにしてくれました。その間には制度的な保障も生まれ、また箕面独自の障害者雇用制度もできました。
裏通りで、しゃれにもならないたこ焼き屋から始まり、今では7つのお店を障害者が運営し、事務所では通信販売事業とリサイクル事業で活気あふれる豊能障害者労働センターでの年月は、わたしの「もうひとつの青春」でした。
そして今、豊能障害者労働センターのアルバイトスタッフとして活動に関わらせていただいていることは、わたしの誇りです。もちろん、いいことばかりではなく、豊能障害者労働センターの未来が決してたやすいものではないことはわかっています。とくに障害者事業制度が今後どうなっていくのが、とても心配です。
けれども、30年前の小泉さんと梶さんの明るさは、そんな福祉制度の事情などでゆれることのない、たしかな覚悟に裏付けされていました。それはほとんど「かくめい」への意志というにふさわしいものです。これまでもこれからも、その明るさが照らす荒野を、わたしたちは歩きつづけることでしょう。

俺たちこそがチャンピオンだ、友よ
俺たちはたたかい続ける 最後まで
これは人類全体への挑戦なんだ。
だから、ぼくたちは負けられないのだ
クイーン・「We Are The Champions」

能勢への引っ越しは、64歳のわたしにとってここが終の棲家になることでしょう。もちろん、人生はまだまだこれからどんなことが起こるかわからないから面白いのですが、それでも豊能障害者労働センターの活動から離れた人生を、最後に歩きはじめるきっかけになるのだとは思います。
とにかく、豊かな自然にあふれています。毎朝、うぐいすのきれいな鳴き声にいやされながら目をさますよろこびをかみしめています。

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