雨にも負けず風にも負けず 難波希美子さんと能勢・ルネッサンス

先日は朝の見守りをしている地域の小学校の終業式の日でした。
わたしたちの見回りチームは総勢4人で、とてもチームとは言えない個人的な活動ですが、それでも時々、「見守り」が監視にならないよう注意しながらつづけています。
ややもすると、偏見でいろいろなひとを受け入れない地域にすぐになってしまう危険があると思うのです。
それはさておき、背に余る大きな荷物を背負ったり抱えたりして、急坂を駆け下りていく子どもたちのはるか前方には、高くはないけれど緑こぼれる里山と、地球のはる彼方からやってきた朝の空が広がっています。こうして何年も何十年も、子どもたちはこの坂を下り、どこにいってしまったのだろうと思います。
その姿を見つめるわたしもまた、子どもたちの年齢から老年の今にいたるまで都会を徘徊し、人を傷つけてしまったこともありましたが、大切な人たちと出会い、助けてもらいながら生きてきました。
子どもたちもまた、これからの長い未来、大切な人たちとで出会いそれぞれの人生を共に生きていく姿を想像すると、意味もなく涙があふれてくるのです。
「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう」といった詩人がいましたが、まさしく、「さよなら」と一方の手を振りながら、わくわくする未来の輝きにもう一方の手を振るわせながら、過酷とされる時代を潜り抜けて生きていってほしいと願うばかりです。

「わたしは街の子巷の子 窓に灯がともる頃」と美空ひばりの歌が真空管ラジオから流れていた子ども時代、シングルマザーの母が兄と私を育てるために必死に働く姿をみて育ちました、そのころ、福祉という言葉は墜落しそうなグライダーさながらに曇り空を漂っていました。「誰も助けてくれないのだから」と弱い体と強い心を併せ持った母は、近所の工員さん相手に食堂を切り盛りしていました。それでもそんな母と私たち子どもにひそやかに手を差し伸べるひとたちがいました。年に二度の中元と歳暮だけで道路際の小さな土地をただで貸してくれたひと、裕福な家の同級生の服を分けてくれたひと、バラックの住居兼お店を安い費用で作ってくれた大工さん、そして、わたしをふくめて町の子どもたちに英語を教えてくれたひと…、わたしは彼女彼たちに助けてもらえる安心とうれしさに包まれていました。今振り返るとあの時代、日本全体が貧乏でしたが、「私は街の子巷の子」と美空ひばりが歌う時、わたしたち子どもはそれぞれの家族の中にいながら、「街の子」として、緩やかであっても助け合いのコミュニティに見守られていたのだと思います。
それでもわたしはいつかその街を出たいと思いつづけていました。何もその町がきらいなわけではなかった、ただあたらしい町で別の人生を送って見たいと思っていました。私は高校を卒業するとともに、大阪市内のアパートに友達と3人で暮らし始めました。
対人恐怖症のわたしにとって、数少ない友人と始めた人生はその後大阪府内を何度も引っ越しながらも子ども時代の故郷には帰れず、その町のごく近くの能勢の地に落ち着きました。能勢の地は私の子ども時代の風景が色濃く残っていて、わたしには故郷に帰ってきたような既視感があります。
今の子どもたちもきっと能勢の町を出ていくことでしょう。それは何も、電車も通らず、頼みの綱の路線バスも減便、廃止が続き、バス停に行けない地域がほとんどで車の運転ができなければ通勤通学、買い物もおぼつかない過疎化の波と、長い間生業とされてきた農林業も高齢化と後継者不足に悩まされ、町内の雇用の場がほとんどないなど、能勢町が抱える問題だけが理由ではないと思います。かつての高度経済成長のもとでの人口の都市集中は終わりを告げつつあっても、若い人たちの都市へのあこがれがきえてしまったわけではなく、ちがった街でちがった自分を探し、新しく出会う友人たちと「青い時」を生きることになるのでしょう。
それをわたしたちは止めることはできませんし、また止めてはならないと思います。
しかしながら、子どもたちもまた大人になり、子ども時代に見慣れ、焼き付いた能勢の自然と大人たちの助け合いのネットワークが生きる支えになっていく、そんな能勢の町を残しておきたいと切実に思うのです。まちづくりは当然のことながら未来の方向へと夢を語ることになりますが、わたしは記憶もまた町の大切な財産だと思っています。

今日はなんばきみこさんの事務所開きで、30人の人たちが駆けつけてくれました。難波さんと知り合って多くのことを学びましたが、何よりも彼女は能勢の町が大好きで、大好きだからこそ、能勢のかけがえのない自然を子どもたちに残したいと願う、そのまっすぐで率直で純粋な心に惹かれます。コロナ禍のさなかで自粛の波が押し寄せ、心まで硬く縮ませる日々が続き、その波は子どもたちの自死にまで及んでいます。この町の、この社会のすべてのことにアンテナを張り巡らし、宮沢賢治の詩のように「雨にも負けず風にも負けず」、能勢の町をときには自転車で、時には歩きながら、道ゆく人とも何時間も語り掛け、そのひとの悲しみや憤り、能勢の町への希望と絶望を聞き続けることのできる難波さんに、「ああ、このひとはこのように能勢の自然の声を聞き続けてきたのだ」とつくづく思います。自然のまったなしの悲痛な叫びを聞くことと、この町で暮らすひとびとの涙を受け止めることは、心の地平線でつながっているのでしょう…。
そのことを痛いほどわかっているから、わたしたちは武器を持たない「たたかい」に臨みたいと思うのです。いつか子どもたちに「お帰りなさい」といえる能勢の町であるために…。

友部正人 MASATO TOMOBE - 愛について
壁に二つの影が映っている
子と母の二つの影が映っている
二人は自転車をこいで今 家へ帰るところ
子は母に話しながら 母は子にうなずきながら(友部正人「愛について」)

美空ひばり - 私は街の子 (1951)

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