2つの「もうひとつの国家」 東京オリンピック

梅雨明けとともに猛暑が続く中、隣の空き地に笹が生い茂り、さすがにこれはまずいと草刈りをしています。わたしは情けないことに草刈り機の操作ができず、手鎌で少しずつ刈り取っているのですが、なにぶんこの暑さでは体がもたず、朝の間に30分程度の作業にしています。それでも雨合羽の上下を着ていますので中のシャツもズボンもびしょぬれになり、汗が引くまでしばらくじっとしていて、それからシャワーを浴びています。それからまた大椿ゆうこさんのチラシやなんばきみこ通信をまくと毎日2回シャワーかお風呂という、風呂ギライの私が妙に清潔になり、さすがに4キロほど一気に減量にも成功しました。

そんな能勢での隠居生活をしている間に、とうとうオリンピックが始まりました。コロナ禍の中、かなりの人たちがオリンピックの中止・延期を望んでいたと思うのですが、政府も大会組織委員会も東京都も、またスポーツ団体もまるで何かにとりつかれたように「アスリートファースト」という名目でIOCの言うままに何が何でも開催するという暴挙に出ました。
オリンピックの中止や延期を主張しているのは一部の人たちという情報操作の元で、マスコミ報道もオリンピックにシフトしていますが、予想されていた最悪に近いコロナ新感染者数が急増という状況の中、開会式や閉会式などエンターテインメント部門の担当者の辞任や解任がつづき、選手の関係者の方々以外は盛り上がりに欠けるというのが実情でしょう。とくに、コロナで大切なひとをなくされた方や、今闘病中の方々、日々患者さんと向き合う医療関係者の方々の心情がどれほどのものか、思いが届かないのが正直な気持ちです。
どう考えてみても、パンデミック下でオリンピックを開催することは歴史上ありえないことで、ひとの命よりもオリンピックを優先したということなのでしょう。
もともと昨年、オリンピックの中止・延期が叫ばれ、一年延期を決定した時、専門家でなくても一年では収まるとは思えないところ、レガシーを望む前安倍政権の強い意向で一年延期になったともいわれています。「一年たったら何とかなる」といういい加減な神頼みのような分析で、専門家の提言を無視し、後手後手の対策に明け暮れ、オリンピックの中止もしくは延期は絶対にしないという強い「決意」だけでコロナ対策に使うべき多額のお金と尽力をオリンピックにつぎ込んだことは、後々まで大きな禍根を残すことでしょう。
それを予測するようにコロナの勢いは止まらず、今度の波はいままでとはあきらかにちがう大きなもので、東京の非常事態宣言、大阪などのまん延防止等重点措置の再延長もありうる状態です。ここ2年、手洗いとマスクの着用、不要不急の外出自粛、会食禁止や三密防止などの行動規制を伴う非常事態宣言、まん延防止の繰り返しに疲れと慣れが重なり、人流(変な言葉ですね)の歯止めが利かなくなっています。また十分な補償なき締め付けをつづける国と行政に振り回され、困難な状況にある居酒屋や飲食店、ライブハウスなどのエンターテインメントに携わる人たちにとっては、オリンピックだけが許される矛盾に絶望と怒りを抑え込めないところに来ています。
なにがなんでもオリンピックを強行するこの国の権力にとってもまた、ワクチンを頼りにしたこのタイミングでコロナが爆発的にまん延する事態までは予測していなかったと思われ、これまで以上に安心安全なオリンピックを強調するものの、オリンピック関係者の感染も増えていて、正直なところ速く終わってほしいと思っているのではないでしょうか。
オリンピックを強行する一方、強力な自粛を求める強権政治は一見支離滅裂なメッセージを送っているようにみえるのですが、ほんとうはわたしたちは今、この国の中に仮想植民地と呼べるような「もうひとつの国」の建設に立ち合わされているのかもしれません。
わたしは若い頃より、誰もが自分らしく自由で、助け合って暮らせる「もうひとつの国」を夢見てきました。この年齢になるまで、理不尽で悲しい出来事がいっぱいありました。そのたびにそのひとつひとつと向き合い、きちんと自分の意見を伝え、共に行動を起こす努力もせず、心の中で「もう一つの国」を夢見ることで自分に言い訳をしてきたのでした。
70年安保もそれ以後の連合赤軍事件さえも、「もうひとつの国」でしか審判を下すことはできないと思うことで、サイレントマジョリティーといわれるわたしは逃げていたのだと思います。「もうひとつの国」という幻想はいつのまにか、わたしが暴力的な現実から身を隠す核シェルターになってしまっていたのでした。
そして、SEKAI NO OWARI、あいみょん、米津玄師、King Gnu、YOASOBI、など、次々と生まれる音楽と出会うと、少なからず1960年代以来の若者文化が花開く今、若者たちもまたこの国にいくつものシェルターを築き、彼女彼らがつくりだす音楽に隠し持つ、この国の言葉では理解できないシグナル・合図を遠く離れた世界の果てにまで送り合っている気配がします。
阪神淡路大震災、アメリカ同時多発テロ、そして東日本大震災などなど、おびただしいいのちが奪われ、取り返しのできない傷を負ってしまったことで、日本も世界も変わるのではないか、変わらなければならないのではないか、わたしもまたそのために何か行動を起こさなければと思いました。
しかしながら、東日本大震災の時、「これを機会に社会がより良い方向に変わるというのはあなたたちの幻想だ」とある評論家が言った通り、日本も世界もますます悪い方向に突き進んできたと思います。
戦後民主主義の幻想の下で戦前のような国家の再建を粘り強く進めるひとたちは、10年前を境に一気に地上にその蓄えた力を爆発させ、「決められない政治」から「決断する政治」へ、強権政治を頼れる政治と喧伝し、わたしたちもまたサイレントマジョリティーの声なき声を強い力の行く先に同調することで、今の社会をつくってきてしまったのだと思うのです。それは同時にこの10年のより際立った格差社会がつくりあげてきた仮想植民地・「もうひとつの国」がその姿を現しつつあるともいえます。
パンデミック下のオリンピックの強行は、その強い国家の最初の仕事なのだと思います。過去の歴史を見ても、自粛が迫られているエンターテインメントが独裁国家の大切な道具であったことは間違いがなく、1964年のオリンピックがその役割をテレビにもとめたように、今回のオリンピックはSNSにその役割を求め、新しい恐怖国家の住民になるように誘導されているように思うのです。
わたしがそう思うように、若者の中にもシェルターに入り身を隠すだけではこの恐怖国家に通じる道をさけて通れないと気づきはじめたひとたちがいるかもしれません。
だからこそ、わたしたちはその「もうひとつの国家」からはじき出される雑民、貧民、窮民として、わたしたちの夢見る「もう一つの国家」、「救済国家」を実現するための窮民政治を求めて、政治を変えるぎりぎりのチャンスかもしれないせまりくる衆議院選挙にかかわりたいと思います。

Hey ho stormy sears
誰かからのSOS
ずっと耳をふさいできたこの僕に whoa-oh-oh-oh
Hey ho stormy sears
誰かからのscream of silence
この嵐の中 船を出す勇気なんて 僕にあるのかい
SEKAI NO OWARI 「Hey Ho」(2016年)

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