講演会「戦争の記憶-大阪大空襲」

今年90歳になる妻の母は、1945年3月13日の大阪大空襲にあいました。当時一家は大阪市大正区でおかき屋を営んでいました。その夜、母親はあいにく外出していて、家には19歳の彼女と寝たきりの叔父の二人しかいませんでした。
彼女はなんとか叔父もと引きずり出して、大正区でもっとも大きな道路の交差点にまで出てきました。街のいたるところに火が上がり、人が倒れ、生き残った人が川に止めてある大きな船に避難するために我がちに走っていったといいます。
動けない叔父と二人、道路の真ん中で途方に暮れていると、近所のおじさんが二人を見つけてくれました。そのおじさんは家族全員を避難先となっていた大きな船に届けてから、残された子どもがいないか、また火を消そうと家のあたりに戻ってきたのでした。
「こんなところにいたらやられるぞ、あんただけでも逃げないと」と、残酷だけど動けない叔父に水で濡らした布団をかけ、彼女だけを連れて安全と思えるところまで連れて行ってくれました。
空襲が止み九死に一生を得て交差点に戻ると、爆風で叔父さんの姿はどこにもありません。
後から聞くと、町の人たちが避難した船は炎とともに全焼したそうです。米軍は人々の避難先の船をめがけて爆弾を落としたのでした。避難したすべての人が亡くなり、彼女を助けてくれたおじさんの家族も犠牲になりました。
彼女はその時の地獄のような光景を忘れることができませんでした。安全な避難先とされた船が襲われ、逃げ遅れたはずの自分が近所のおじさんのおかげで助かったこと、そのおじさんの家族は全員なくなったこと、交差点の真ん中に濡れた布団をかけ祈りながら叔父さんを残していってしまったこと…。
十年、いや二十年たっても悪夢にさいなまれ、夜中に何度もうなされたといいます。

東京-10万人、大阪-1万5000人、全国400市町村への空襲による被害は、「逃げずに火を消せ」、「避難の禁止」などを定めた防空法制と、「空襲は怖くない」などとする情報統制によって被害が拡大しました。
「国民・市民・住民」ではなく「国体」を守るための「防空法」によって多くの命と財産、そして人権が奪われた事実を学び、国が緊急時ということで国民の暮らしや行動を規制することがどれだけ危険であるかを、みなさんとともに考えたいと思います。

講演会「戦争の記憶-大阪大空襲」” に対して2件のコメントがあります。

  1. 蒼士 より:

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    こんにちは、蒼士です。
    このような時代に生まれていたらと思うと恐ろしく思います。
    平和な時代でよかったと思いますが、この平和は多くの犠牲の上に
    なりたっているので、先輩に感謝しなければいけないですね。
    戦争は怖いですね。
    それでは応援して帰ります。

  2. tunehiko より:

    SECRET: 0
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    蒼士様、また返信が遅くなりました。ごめんなさい。
    ほんとうにそうですね。長い戦後が、いつのまにか「戦前」にならないように、できることをしようと思っています。

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