「防空法」空襲化で禁じられた非難-大前治さん講演会

9月25日、能勢町淨るりシアターで「戦争の記憶-大阪大空襲」というイベントをしました。午後2時から、ピース大阪からお借りした映画「焼き尽された大阪の街」を上映した後、大阪大空襲訴訟弁護団のひとり・大前治さんに「空襲化で禁じられた避難」と題した講演をしていただきました。その後、能勢町からお二人、西宮からお一人、大阪大空襲にあわれた方々の生々しい体験を証言していただきました。 そして、戦時中の徴兵検査や「銃後の守り」と称する国家総動員体制の中での市民生活と、大阪大空襲の貴重な写真をピース大阪からお借りしたパネル展を終日開きました。

わたしは昨年の春から、「憲法カフエ・能勢」に参加してきました。集団的自衛権を認める安保法制が成立したり、今年の参議院選挙で憲法を変える手続きを終えた現実の中、日本国憲法が制定された1947年に生まれ、戦後の民主主義の空気を吸って生きてきたわたしは、政治的な意思を表すことが苦手な性格や資質を乗り越え、少ない友人とともに直接的な街頭行動に参加するようになりました。 「憲法カフエ・能勢」は、そのきっかけになった学習会でしたが、2回目の学習会に参加してくれた能勢町の女性から、「能勢町にも焼夷弾が落ちた」というお話を聞きました。 1945年3月10日から始まった東京や大阪、名古屋など大都市への空襲により、全国で50万にとも60万人ともいわれる尊い命が犠牲になり、街のすべてをがれきと化す大きな被害をもたらしました。私が育った北大阪の街にも子どもの頃は戦争の爪痕である焼け落ちたままの建物が残されていましたし、大阪城のそばの大阪砲兵工廠跡はわたしが高校に通うために乗っていた大阪環状線の車窓から毎日、そのすさまじい空襲の記憶をとどめた残骸を見つめていました。 「畑と森だけの能勢に一発の焼夷弾が落ちたことは知りませんでした。自分の体験は大阪市内のすさまじい空襲体験とは程遠いものだったけれど、そのたった一発の爆弾がもたらした恐怖はいつまでも忘れられない、だから二度と戦争をしてはいけないという強い想いはわたしの人生の大切なよりどころでした」。 その女性の話を聞き、日本国憲法が「二度と戦争をしない」とする切実な想いから生まれたことをあらためて強く感じたわたしたちは、憲法の学習と並行してもっと戦争体験を聞く機会をつくらなければと思いました。 そして、憲法カフエのメンバーが大前治さんの話を聞きに行き、「逃げずに火を消せ」、゜非難の禁止」などを定めた防空法制と「空襲は怖くない」などとする情報統制によって、あの悲惨な空襲の被害がより広がったことを知り、そのお話をぜひ能勢でもしていただきたいと思ったのでした。

もとより、通りすがりなどが全くない農村地の能勢ですから、午前中のパネル展だけを見られる参加者はお一人お二人でしたが、メインの講演会には20人の参加者がありました。 初めに上映した映画は今年亡くなられた大女優・新屋英子さんが孫娘と満州事変からはじまる15年戦争と太平洋戦争、そして大阪大空襲をドラマ仕立てでたどるドキュメンタリーでした。大阪大空襲の被災地をめぐり、空襲を体験したひとたちが見聞きした惨状を描いた絵を背景に生々しい証言が語られました。 参加者の中にも空襲にあわれた方々も半数以上もおられて、映像の一コマ一コマに一緒に来られたお友だちとうなずいておられました。 そして、大前治さんの講演が始まりました。 大前治さんは教育や人権問題に取り組まれている弁護士で、大阪大空襲訴訟原告の弁護団の一員で、空襲被害者だけが戦後補償の枠外に置かれたことと、戦時体制での防空法制や情報統制によって被害が拡大し、奪われずにすんだ命が多数あったことを裁判で明らかにされました。2014年の最高裁判決後も引き続きこの問題にかかわられ、「検証-大阪大空襲」を共著されました。 実際、戦後すぐ生まれのわたしは爆弾が落ちて来る前に箒やはたきのようなので払いよけるとか、逃げずに火を消したとか、スコップで爆弾を外に掘り出せとか、考えられない原始的な方法で空襲に備えたなど、当時の大人たちから聞くことも多々ありました。当時の大人たちが自発的に家族を守り、町を守ることで一致団結していたというよりは、隣組に代表される監視社会のなかでそうせざるを得なかったのだろうと思っていましたが、大前さんのお話を聞き、それが「防空法制」による法的根拠を持っていて、義務付けられていたところまでは知りませんでした。 大前さんのお話もまた映画と同じように満州事変あたりから15年かけて、時の国家が少しずつ国民一人一人の暮らしから最後は命まで、国家のためにささげる仕組みをつくってきたというお話でした。当時の大人たちもまた、日清日露戦争の経験から戦争ではかならず日本が勝ち、そのあとは豊かになると思わされてきて、その先に1945年の大空襲で自分のいのちが危なくなることなど考えてもいなかったのだといいます。 それゆえに、戦争体験者が知らされなかった真実を後から検証し、体験者はもとより、今の若い世代にもきちんと伝えなければ、そんな時代にまた逆戻りする危険があるのです。 そう考えながら今の政治、世の中を見直してみると、すぐそばにやってきている憲法を変える第一歩として「緊急事態条項」がテーブルにあがっていることや、いますでに施行されている特定秘密保護法や「共謀罪」の衣装を着替えた「テロ等組織犯罪準備罪」など、満州事変からの動きととてもよく似ていることに気づきます。 大前治さんのお話は「防空法」を切り口に、すぐそばにまでせまっている国家による国民の人権や自由の制約と拘束、そして長い「戦後」が「戦前」にかわる節目に私たちがたっていることを教えてくださいました。 そのあとの座談会には、空襲体験を持っておられる三人の女性から貴重なお話をいただきました。それぞれお一人お一人のお話は、映画に出てきたそれぞれの被災地の現場におられた方しかわからないもので、どなたも今伝えておきたい、話しておかなければならないという、切羽詰まった思いがほとばしり、私も含めて当日その場におられた方の心の奥深くに届きました。そしてその証言はその場にいなかったわたしたちの新しい記憶となってこれから先いつまでも消えないことでしょう。 ここにおられるたった3人の方のお話がこれほどまでに心のひだにしみこみ、わたしたちに戦争をしないことだけではなく、戦争に向かうリスクを取り除く努力をしつづける静かな決意を奮い立たせるのですから、これからも一人でも二人でも伝えていかなければならない証言を聞かせてもらう機会をつくらなければと改めて思いました。 20人という少ない参加のイベントでしたが、とてもいい時間をすごすことができました。

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