Yさんとボブ・マーレーとトキドキクラブ 大椿ゆうこさんのこと2

エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない
中島みゆき「エレーン」

あれはたぶん1983年、Yさんが豊能障害者労働センターに現われてからまもない日曜日だったと思います。わたしの妻がYさんを誘い、3人で須磨の海岸に行きました。
わたしと妻は、労働センターと関わったのと同じ頃、Tさんというステキな歌うたいと出会いました。
わたしたちは1972年頃に彼がまだ高校生だった頃、旧豊中市民会館のこけら落としのステージで彼の歌を聴いていました。その彼がバンドをつくってまた歌い始めた頃、わたしが箕面ではじめて開いたロックコンサートに参加してくれたのをきっかけに彼のバンド「トキドキクラブ」のファンになり、彼らの出演するライブに必ず出かけていたのでした。
Yさんはおよそロックやレゲエを聴きに行くには似つかわぬいでたちで現われました。あの時は時代遅れと思いましたが、まわりまわって今は流行りのオールドファッションのブラウスにブリーツのスカート、真っ赤な口紅。ハイヒールは海岸の砂に足をとられ、足がいたいと何度も立ち止まりながら、やっと野外ステージにたどりつきました。
その日はボブ・マーレーを偲び、1982年から始まった海辺のフリーコンサート「須磨の風」が開かれていて、トキドキクラブが出演したのでした。
トキドキクラブのライブが始まると、Yさんは踊り始めました。それはなんとも言いがたい風景でした。レゲエの若者たちのカッコいいファッションの群れの中で、Yさんのまわりだけが古い日光写真の中にあるような、不思議な光景でした。
そのうち妻が一緒に踊り始めました。しばらくして気が付くと、わたしはやみくもに前に走り出てめちゃくちゃなラジオ体操をしていました。そして、わたしたちを遠巻きに笑ってみていた若者のひとりの手をつかみ、引きずり出そうとしました。実際その時のわたしは、その若者になぐりかからんぐらいの勢いだったのでしょう。彼らは心優しくて、わたしが近づくと逆らいもせずみんな逃げて行くのでした。
「あっ、また悪い癖が出てしまった。」と思いました。この歳になっても時々わけもなく胸が高鳴り、とんでもない無茶をしてしまうことがあるのですが、40年前のわたしはすでに30代半ばになっても少し「アブナイ」人間だったのでしょう。
周りを見ると、もうひとり男が踊っていました。労働センターの良き理解者だった神戸のスナック「メルヘン」のマスター、今は亡きマスモトさんでした。Yさんと妻、マスモトさんはトキドキクラブの音楽に酔いながら、しなやかに体を動かしていました。
Yさんはまわりのことなど気にもせず、5月の風に身をゆだね、太陽をちりばめた光の粒のような波の階段の踊り場でスカートをひるがえし、それが遠い国の言葉であるかのように、トキドキクラブの音に耳をかたむけて踊り続けました。
その時、わたしは思ったのです。Yさんの踊りが自分をとりもどしていく時速100キロの青春の救急車だったことを。そして障害があるというだけで、Yさんの青春は少女のままひん死の重傷だったことを…。あの時、真っ青な空と白い光とキラキラ輝く波と砂浜に包まれて、彼女は自由を手にした喜びにあふれていました。
そして、マスモトさんもまたゲイであることをカミングアウトし、友人や彼を慕う若い人たちに囲まれてもなお、「深い人間関係」に焦がれるわが身を解き放つように、踊り続けました。
トキドキクラブの演奏が終わり、ボブ・マーレーの「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」がかかった時、若者たちが一斉に踊り始めました。
Yさんはそれから2年ほどして、わたしたちが想像できないスピードで労働センターを去っていきました。きっとわたしたちは、どこかでさよならの仕方を間違えたのかも知りません。自分を取り戻していくYさんの変わりように、わたしたちはついて行けなかった。
その時のYさんにとって、労働センターが自由への旅がはじまる青春のプラットホームだったのでしょう。

大椿ゆうこさんにはじめて会った時、「ちがいは力、みんなちがってみんないい」という皮膚感覚が自然にしみわたっていることに感動しました。もって生まれた感性から、非正規の労働者たちに立ちふさがる問題が労働の場だけにあるのではなく、ひとりひとりの生い立ちや人間関係の背後にある同時代の社会全体にはびこる差別や格差や偏見や理不尽な仕組みから来ていることを、彼女は痛いほど学んだのでしょう。
「ひとりぼっち、ふたりぼっち、3人ぼっち」と孤立が孤立を生み、「自己責任」という言葉で切り捨てられ、追い詰められた末に彼女の前に現れたひとりひとりの人生をまるごと受け入れる彼女の心には、数多くのひとびとの無念や悲しみや切ない希望ややるせない夢がとげのように刺さっているのです。そうでなければ雨の日も風の日も毎日路地に立ち、「大丈夫だよ、あなたがしんどいのはあなたのせいじゃない」と語り、「生存のための政権交代」を訴え続けることなどできないと思うのです。
そんな大椿ようこさんを見ていて、わたしはなぜか40年前に出会い、別れて行ったYさんのことを思い出しました。Yさんはセンターをやめても生活保護で自立生活をしていましたが、あの時代はまだ就労の場はおろか公的な介護保障も脆弱で、家族に支えられて暮らす以外に地域で生活することは難しい時代でした。
豊能障害者労働センターも生まれたばかりの頃でした。働くひとの権利の前に、「就労を拒まれる障害者の働く権利」を獲得するために、障害のあるひともない人も共に働きお金を分け合う、たとえばこんな働き方はどうだろうと労働センターの活動がはじまりました。
理想は高く現実の奈落は深く、給料と言えないほどのお金しか手にできないふがいなさを抱えながらその日その日を生き延びていました。センターの自立障害者の命綱は生活保護とそれにともなう介護保障でした。それは障害者運動の先達・青い芝の障害者が命を懸けて勝ち取ってくれたものでした。
時代はたしかに変わったのだと思います。40年前にくらべるとわたしの知り合いの障害者たちもグループホームで自立生活に準ずる暮らしをしていて、介護の保障もずいぶんよくなりました。しかしながら、障害者が当たり前の労働者として働き、所得を得ることは今でもかなり難しいことも事実です。
だからこそ、障害者に限らず働く場にたどり着けないひとたちとともにある労働運動のあり方を探しながら、だれもが安心して暮らせるための政治、競い合いから助け合い、共に豊かさと貧しさを分かちあう社会を激しく求める大椿ゆうこさんの「たたかい」に、わたしたちの希望を託していきたいと思います。
それはYさんがわたしに残してくれた青春の行方をたどることでもあるのです。

梓みちよ「エレーン」(作詞・作曲 中島みゆき)
かつて外国人が多く住むマンションで暮らしていた中島みゆきは、ある時、酔っ払いに絡まれている外国人女性を救ってあげたことがきっかけで、彼女と交流するようになる。ある時、この女性は殺害され裸の状態でゴミ捨て場に遺棄されていた。彼女は娼婦だった。この事件は新聞に数行書かれたのみで、警察の調べも虚しく迷宮入りとなったという。

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