ノスタルジーと街を未来する人々の心がつながる不思議な街

北海道旅行3 街を元気にするだけではない、時代の流れを街の変化に映す市民の街・小樽

  翌日、日高総合支所の近くの民家を利用した宿から朝早くに日高町営バスでJR占冠駅へ、占冠駅から南千歳駅、南千歳駅で乗り換えて小樽につきました。今回の旅で、ラストは観光地と要望していたのが実現しました。このあたりに来るとインバウンドでアジアの人たちがツアーで来ていて、いろいろな外国語が飛び交います。わたしにはそれがとてもうれしい刺激でした。
 小樽駅に向かう列車で、トイレに行くために自動ドアをタッチしたのですが反応が悪いなと思っているとパッとドアが開き、ドアの向こう側にアジアの青年が立っていました。そして、とてもフレンドリーに「Touch(タッチ)」と言いました。おそらくわたしを外国人と思い、親切にドアをタッチして開けてくれただけでなく「タッチするんですよ」と教えてくれたのだと思います。その青年のすがすがしい笑顔が忘れられません。
 わたしはSNSなどで外国人を排斥するような言動をとても悲しく思っていて、能勢電車でも最近よく外国人の観光客と出くわすたびに、英語だけでも学んでいたらちょっとしたことでも役に立つことがあるのではないかと後悔しています。

 今回の旅はアイヌのひとたちの歴史や文化を学ぶことで、ほんの少しその目的を果たし、最後は有名な小樽運河を観光することにしたのですが、小樽の街はわたしが勝手に想像していたような観光の街と少しちがっていました。というのも、観光客が期待してしまうような今時のぎらぎらしたエンターテインメント性も、反対に旅慣れた人向きの歴史ある含蓄を押し付けられるのでもない、とても不思議な雰囲気を感じました。それが何なのかをずっと考えながら小樽運河の船着き場に向かいました。平日だからかそれほど込み合ってもいなくて、少し待っただけで船に乗り込むことができました。アジア系の外国人がツアーで来ていたのでしょう、子どもたちのはしゃぐ声が心をなごませました。
 小樽運河はそんなに大きくはありませんが、運河から見える倉庫群が往時の役割を変え、レストランや雑貨店などにリニューアルされていて、今は運河から見ると建物の裏側になり、昔の面影を懐かしむように運河の水をゆらしていました。
 ガイドさんの説明で、運河の成り立ちや、戦後の復興期から高度経済成長へと移り行く中、運河も倉庫も壊して大きな道路を作る計画が持ち上がったこと。それを知った市民たちが立ち上がり、十数年に及ぶ議論の末に一部は埋め立てられましたが、市民と行政が共働して運河を観光資源として活かすことで保存し、修復整備して守っていることを知りました。
 それを聞いて、わたしはこの街の不思議なたたずまいの理由がわかったように思いました。往年のにぎわいと絶頂期へのノスタルジーを残したまま、運河をはじめ歴史資産の保存に紛争した永年の市民運動がこの運河と街を支えていて、どの町も抱えている次の時代への課題に直面しながら変わろうとするこの街のひとびとの姿が垣間見え、感動しました。
 人も時代も変わるけれど、その激動の100年をこの街は確かに記憶しているのでした。

ギラギラした野望が朽ち果てた跡に、いとおしい未来を夢見たひとびとがいた

 小樽港はニシンの好漁場であったことから、幕末から整備されていきましたが、明治になると本州と小樽間の物流を担う北前船の往来が急増し、また幌内の石炭を小樽に運ぶ鉄道が開通しました。そして貨物の積み降ろしのための運河がつくられ、周辺に多くの石造倉庫が作られていきました。
 1924年に難工事の末に竣工した小樽運河の100年の歴史は、ちょうど「アイヌ神謡集」の著者・知里幸恵さんがアイヌ民族の精神を残そうとし、その後も迫害されてきた歴史の最も対極にあると思いました。
 最盛期には25の銀行が軒をそろえた北海道随一の経済都市の中心だった小樽運河も、艀(はしけ)荷役の役割を終え、特に戦後になって荒廃が進み、長年にわたって堆積したヘドロからメタンガスがブクブク泡をたて、壊れた船が沈んだ状態だったそうです。
 高度経済成長期に取りのこされた小樽の街がそこにはありました。そこで小樽では、増え続ける車社会の対応や経済再生のために倉庫を取り壊し、運河を埋め立て道路にする計画が決定し、有幌(ありほろ)地区の倉庫群の取り壊しが始まりました。
 そのとき「まちの記憶」をまもろうと保存運動が起こります。当然のことながらどこの街でもよくあるように、当初は経済界を中心に猛烈に圧力がかかり、行政もまた強行に再開発を推し進めました。
 しかしながら、最盛期から半分になった人口10万人の小さな都市にとって、荒廃した小樽運河や周辺の倉庫群を修復整備し、その歴史的景観を生かした観光として再出発させることはとてもすばらしい提案で、実際に運河に行ってみたらだれでもわかると思います。
 わたしの住む能勢町でも「町の発展と成長のために」と企業誘致を望む人たちもたくさんいます。しかしながら能勢町の財産は自然を保護している農地と山林で、それを活かして新規就農者と農地のマッチングや農山林関連事業に力を入れるべきじゃないかと思います。もちろん、小樽運河と比べられるものではないですが、消費者がたくさん住む都市に近く、豊かな自然資源を持つ地理的に優位な能勢町は経済的にも持続可能な街だと思うのです。

街もまた夢を見る 時代の眠りのかなたに

 1970年代から十数年、小樽運河保存運動と道路建設を強く望む産業界などとの激しい論争がつづきました。そのなかで、1978年に運河を守る会の会長となった峯山冨美さんたちは議会、行政への要望のほか、広く市民に訴えようと署名活動やデモ、さらには若い人たちと音楽祭を開いたりして、幅広い市民と北海道民、そして全国の市民にも訴え続けました。活動記録の年表を見るとその粘り強い活動はその後の全国の自然保護や歴史的景観の保存運動にも、また市民がけん引する街づくりの運動にも多くの影響を与えたことがわかります。1986年、運河埋め立てを伴った道道建設は終了しますが、運河のほぼ半分以上は埋め立てられず残り、修復整備され、観光スポットに生まれ変わり再出発したのでした。
 「小樽運河保存運動」によって、まちの遺産が再評価され、まちづくりに活用している背景には港湾都市、商都として街をつくってきた市井の人々の誇りと「民の力」の伝統が生み出したものでしょう。そんなことをまったく知らないわたしが感じたように、この街の不思議な魅力は、「街もまた記憶を重ね、街もまた夢を見る」ことを市民たちが受け止め、その記憶と夢を持ち続けている事なのだとおもいます。
 そんな気持ちで飲み屋をさがしていたら、メインストリートからはずれたところにディープな居酒屋がありました。そこには小樽を愛する常連さんがやってきて、お店の女のひと3人の細かい気配りとハリキリ接客がとても心地よく、北海道旅行の最後を締めるおいしい魚を食べました。観光の街でありながら市民がつくり育てる街・小樽はうれしい街でした。