須磨の風とボブ・マーリーとYさんの思い出 ピースマーケット番外編

エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
エレーン その答えを誰もが知っているから誰も問えない
中島みゆき「エレーン」

今年のピースマーケットのライブステージに、レゲーバンド・パパムー&ムーサンズが来てくれました。ボブ・マーレーの曲で始まった彼らの演奏から、随分長い間レゲエともボブ・マーレーとも遠ざかっていたわたしを36年前の青い時に引き戻しました。
ユーチューブで彼らのライブ映像を見ていると、「須磨の風」コンサートの話が出て、とても懐かしくなりました。
おそらく1983年だったと思うのですが、その前年に開所した豊能障害者労働センターにはじめて知的障害と言われる女性が入ってきました。労働センターの黎明期に彼女とわたしたちが右往左往した数々の「事件」を思い出し、胸が熱くなりました。
以下の文章は2年半で労働センターを去って行った彼女・Yさんのことを思い、1987年に豊能障害者労働センター機関紙「積木」に書いたものです。

Yさん、あなたが労働センターを去ってから、もうずいぶん時がたってしまいました。
あなたが労働センターにいた2年半という時間を今ふりかえってみても、あなたの出した宿題はあまりにも大きすぎるように思います。
その答えを出す時をまちがったぼくですが、中島みゆきの歌を口ずさみながら、一緒に行った須磨海岸のコンサートのことを思いだしたりします。
あれはたぶん、あなたが労働センターに現われてからまもない日曜日だったと思います。ぼくの妻があなたを誘い、3人で行きました。
ぼくと妻は、労働センターと関わったのと同じ頃、Tさんというステキな歌うたいと出会いました。不思議にもぼくらは1972年頃に彼がまだ高校生だった頃、豊中市民会館のステージで彼の歌を聴いていたのでした。
その彼がバンドを作ってまた歌い始めた頃、ぼくが箕面ではじめて開いたロックコンサートに参加してくれたのをきっかけに、ぼくは彼のバンド「トキドキクラブ」のファンになり、彼らの出るコンサートに必ず出かけていたのです。
あなたはおよそロックやレゲエを聴きに行くには似つかわぬいでたちで現われました。時代遅れのブラウスにブリーツのスカート、口紅だけは真っ赤でハイヒール。海岸の砂に足をとられ、足がいたいと何度も立ち止まりながら、やっと野外ステージにたどりついたのでした。
トキドキクラブのライブが始まると、あなたは踊り始めました。それはなんとも言いがたい風景でした。今風のカッコいいファッションの群れの中で、あなたのまわりだけが古い日光写真の中にあるような、不思議な光景でした。見ていた多くの若者は笑っていました。
うしろの方にいたぼくは、サングラスの中でその遠い風景を見つめていました。
そのうち妻が一緒に踊り始めました。若者の苦笑いはもっと大きくなりました。
しばらくして気が付くと、ぼくはやみくもに前に走り出て踊り始めた、というより、めちゃくちゃなラジオ体操をしていました。サングラスはどっかへふっとび、財布や免許証がちらばりました。
ぼくは本当に、今まで貯金してきた恥という恥を団体で使い果たしてやろうと、彼らのひとりの手をつかみ、引きずり出そうとしました。
実際その時のぼくは、その若者になぐりかからん勢いだったのでしょう。彼らは心優しくて、ぼくが近づくと逆らいもせずみんな逃げて行くのでした。
「あっ、また悪い癖が出てしまった。なんで俺はいつもこうなんだろう」と思いました。
回りを見ると、もうひとり男が踊っていました。労働センターの良き理解者だった神戸のスナック「メルヘン」のマスター、今は亡き増本さんでした。あなたと妻、増本さんは本当にトキドキクラブの音楽に酔いながら、しなやかに体を動かしていました。
踊り始めてから見る風景は、サングラスによどんでいた風景とはまるでちがいました。5月の風に身をゆだね、太陽をちりばめた光の粒のような波の階段の踊り場で、スカートをひるがえし、それが遠い国の言葉であるかのように、トキドキクラブの音に耳をかたむけているあなたがいました。
トキドキの演奏が終わり、ボブ・マーレーの「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」がかかった時、若者たちが一斉に踊り始めました。
いま、はっきりとぼくは言える、あの時のボブ・マーレーは、あなたにこそ語りかけていたことを。いま、はっきりとぼくは言える、あなたの踊りが、自分をとりもどしていく時速100キロの青春の救急車だったことを。あなたの過ごしてきた授産施設で、あなたの青春は少女のまま、ひん死の重傷だったことを。
それから半年後、ぼくたちは事務所の土間を改造し、たこやきの店「れんげや」を開店しました。あなたは僕の妻とたこ焼きを焼くことになりました。
あなたが焼くふぞろいのたこやきのファンも現われました。
きっとぼくたちは、どこかでさよならの仕方を間違えたのだと思います。自分を取り戻していくあなたの変わりように、ぼくらはついて行けなかった。
短い間にいくつもの恋を通り過ぎたあなたは、そのたびに別の「もうひとつの場所」を見つけてきました。その時のあなたにとって、労働センターが自由への旅のはじまりの、小さな駅の待合室でしかなかったことも仕方のないことでした。
十三の映画館で、Tさんたちと一緒に芝居をした時、たこ焼きやの女を演じたあなたは、生き生きと輝いていました。あなたはあの時、本当のたこ焼きやさんを捨てることを決めたのではないかと思います。
それから半年後、あなたは労働センターを去って行きました。
寒い冬、なれない手付きでたこ焼きを焼いたあなたもまた、豊能障害者労働センターのかけがえのない歴史なのだと思うのです。
Yさん、元気ですか、いまどうしていますか。

パパムー「ボブマーレーの詩」

Bob marley "no woman no cry" 1979

one love-bob marley lyrics

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