イマジンとガンジー、そしてわたしたち・PEACE MARKETへの道1

ずいぶん前のことですが、NHKの特集番組「世紀を刻んだ歌」という番組があり、1回目は「ヘイ・ジュード」、そして2回目が「イマジン」でした。アメリカの同時多発テロ直後、ラジオ局の放送自粛リストに「イマジン」があったこと、それにもかかわらずリクエストが次々と寄せられ、アメリカだけでなく世界中にこの曲がふたたび流れたことを伝えていました。
ジョン・レノンが1971年に発表してから45年の間、「イマジン」はとりわけ、誰もが差別されず、平和に暮らせる世界を願うひとびとによって歌われつづけてきました。ジョンのソロ時代のアルバムのタイトル・ナンバーでもあるこの曲は、2002年の「英国史上最高のシングル曲は?」というアンケートの結果、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」に次ぐ第2位を獲得しました。
わたしは「インターナショナル」はまったく知らないしまた歌いたいとも思わなかったのですが、「イマジン」にどれだけの涙を流し、勇気をもらったか計り知れません。
わたしがが「イマジン」をはじめて聴いたのは、発売された1971年のFM大阪の番組でした。1970年1月、わたしは3年間のフリーター生活を終え、工場に就職しました。
あたりまえのことですが、妻との暮らしをはじめるには安定したお金を得なければなりませんでした。70年安保闘争で騒然としていた世の中は、運動に参加しなかったわたしでさえ納得できない鬱屈な感情を押し込めたまま、理不尽さと静けさを取り戻しました。
対人恐怖症にくわえて不器用なわたしにとって工場勤めは苦痛でした。それまでの3年間、青臭く「自分たちだけの経済、社会と関わりない暮らし」をめざして友人6人と暮らした果てに夢破れ、「怖い社会」に紛れ込む緊張で心はハリネズミのようでした。
その年の冬のボーナスの全部を使い、はじめてステレオを手に入れ、ビートルズ、ボブ・ディラン、ジョン・コルトレーン、三上寛のLPレコードを買いあさりました。
そうすることでそれまでの3年間の切ない青春に心をつなぎとめようとしていたのかも知れません。1971年、わたしは結婚し、万博景気でできたばかりの文化住宅を借りました。その前年にビートルズは解散しましたが、わたしがジョン・レノンをほんとうに好きになったのは解散以後の「ジョンの魂」を聞いてからで、次のアルバムが出るのを待ち焦がれていたのでした。
そして2枚目のアルバム「イマジン」の発売を知らせるラジオ番組で、全曲が流れました。それを聞きながら何の根拠もなく、こんなわたしでも生きていけると思いました。そして怖いと思っていた社会と、不器用ながらも付き合って行こうと思いました。みんないっしょうけんめい生きているのだ。自分もいっしょうけんめい心を開こうと思いました。

それから何回、「イマジン」を聴いたことでしょう。自分のいっしょうけんめいだけではどうすることもできない世界の紛争と死んでいく子どもたち、豊かといわれるこの社会で起こる悲しい事件をテレビや新聞で見ているだけの自分。このままでよいのかと思う時、わたしはいつも「イマジン」を聞き、口ずさんだものでした。
そしていつか、わたしが夢みる勇気を捨てなければ、自分が生きているというたしかな実感を持ち、助け合うことで豊かになっていく「約束の地」がわたしを待っているのだと思うようになりました。

Iさん、あなたが教えてくれた「善きことはかたつむりの速度で動く」というガンジーの言葉に、わたしは胸の高まりをおさえられません。
非暴力、非屈服でインド独立の実現に人生をかけたひとというぐらいしか知らなかったわたしは、この稀有のひとがインドのひとびとを動かし、ひとびともまた彼を動かした壮絶なたたかいに感動しました。
独立の実現は武力によってではなく、人間に対する信頼、真理、愛に裏付けられた徹底した非暴力しかないという理念から、ガンジーは貧しい農民やカーストの最底辺に置かれた賎民たちといっしょに自給自足経済の村づくりをすすめました。
1920年、ガンジーは紡ぎ車の運動をはじめます。綿糸をつくる紡ぎ車を復活させ、全土に普及させたのです。この運動はイギリス植民地政策への具体的なたたかいでした。それはイギリス商品の不買運動、イギリス系の学校、裁判所のボイコットなど、市民的非協力運動へと大きく波及します。
この運動でつくられた民族服を着ることはインド独立へ意思表明になったといいます。
そして、1930年の塩の行進。イギリスは塩に税金をかけて莫大な利益を得ていました。ここでも彼は塩税拒否という、だれもがわかるたたかいをよびかけ、アシュラム(ガンジーの道場)から海岸までの385キロをゆっくりと歩いたのでした。
60才のガンジーから16才の少年まで、世代や階級をこえた静かな道中はひとびとで埋め尽くされ、海岸についた時には無数のひとびとが塩水をすくい上げたといいます。
それらのたたかいのたびに多くのひとびとが弾圧され、傷つき、牢獄に入れられました。
平和を願う心、差別をなくす意志、非暴力の理念が自立した経済を生み出す活動に裏付けられていることに、わたしは共感します。
わたしが当時在籍していた豊能障害者労働センターが今も続けている市民事業は、ガンジーの紡ぎ車に近づくことなのだと思います。もちろん、わたしたちが逮捕されることはないでしょう。けれども、障害者は就労を拒まれ、自立生活をするためのお金もなく、たとえ自立したとして介護保障も完全ではありません。もし一般経済に参加をこばまれるなら、わたしたち自身の自立経済をつくりだす以外にないとわたしたちは思いました。その夢を実現するたたかいが、豊能障害者働センターの活動なのだと思います。
2001年、アメリカ同時多発テロとアフガニスタンへの軍事行動、その後のイラク戦争で多くの人々がなくなりました。
理想主義といわれたガンジーの切ない夢は時も場所もかわって、ガンジーを尊敬していたといわれるキング牧師に、そしてキング牧師が暗殺された3年後に生まれた「イマジン」へと受けつがれているのだと思います。
そしていま、里山に抱かれた能勢の地で平和を願い、心と物と夢が行きかう市場(いちば)を開こうとするわたしたちの活動もまた、世界中にあるはずの見果てぬ夢の地下水脈とつながっていることを、切実に願っています。

夢かも知れない でもその夢を見てるのは
ひとりだけじゃない 世界中にいるのさ

「PEACE MARKET」を開催するにあたり、1990年代からいくつか書いてきた「武器を持たない平和」を切望する青い夢をたどってみようと思います。第一回のこの文章は2003年に豊能障害者労働センター「積木」に掲載した文章を加筆修正したものです。

ジョン・レノン「イマジン」

ジョン・レノン「Happy Xmas (War Is Over)」

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