ジョン・レノンから忌野清志郎「イマジン」・PEACE MARKETへの道3

2009年5月2日、忌野清志郎がこの世を去って早や7年になろうとしています。この稀代のロックスターが残した遺産はとても大きなもので、今もなお熱烈なファンのみならず多くの人々の人生をかえるほどの影響をあたえたことは間違いないと思います。まだ伝説にしてしまってはいけない数々の音楽とライブ、そして言葉・時代へのメッセージはますます切なく重い伝言となって鳴り響いています。
フォークバンドして出発したRCサクセションが日本の音楽、ロックシーンに躍り出たのは1978年、派手なメイクとパンク・ファッションと、R&Bやソウルミュージックを基調としたロックサウンドでライブパフォーマンスを始めた頃からでしょうか。
以後1980年代のRCサクセッションからソロ活動まで、忌野清志郎は時代の寵児でありつづけました。大人と言われるひとびとのひんしゅくを買いながら、社会の閉塞感に身を縮ませ、自分の命を絶ってしまおうとする若者やわたしのようなおじさんにいたるまで、思いまどうすべてのひとに生きる勇気を与えてくれたのでした。
わたしには2人の音楽の先生がいるのですが、そのひとり、豊能障害者労働センターのスタッフのIさんに忌野清志郎を教えてもらいました。彼との出会いは1993年でした。高校教師のMさん(PEACE MARKETの実行委員)と箕面市の東生涯学習センターにやってきた彼はまだ高校1年生か2年生でした。いわゆる不良(ほめ言葉です)で、Mさんは彼をわたしたちに引き合わせようと考えたのだと思います。
それがきっかけで、彼は豊能障害者労働センターやつながりのある障害者作業所の障害者たちと仲良くなりました。その当時もいまも口が悪いのは変わらないのですが、あっという間にたくさんの障害者と友だちになってしまいました。
そんな彼がある日、豊能障害者労働センターにMさんとやってきて、「高校やめて労働センターに来る」と言い出しました。後少し辛抱すれば高校卒業という時期で、わたしは「せめて高校は出ときや」といいましたが、もう決めたからと豊能障害者労働センターの一員になってしまいました。
彼はエルビス・プレスリーのファンであったばかりか、アメリカのブルースを知り尽くしていて、もう一人の先生だったブルースシンガーのTさんが東京に行った後、ブルースの名曲を録音したカセットテープをくれたり、酒を飲みながら戦前のロバート・ジョンスンからはじまり、ブルースの歴史を夜通し話してくれました。本来なら30歳以上も年上のわたしが若い彼にうんちく言うところなんですが…。
その彼が猛烈に好きなのが忌野清志郎でした。エルビスとキヨシローは彼の人生の師匠そのものだったのでしょう。ひとを傷つけたりひとにきずつけられたりして、周りからも見放されかけた彼が大人や社会とかろうじてつながり生きて来れたのは、会ったこともない二人の稀代のロックスターだったのでした。
その頃のわたしは豊能障害者労働センターでただただ切ないお金をつくることに必死で、音楽と遠ざかっていた時でしたので、彼がくれるカセットテープやブルース談義は貴重な情報でした。忌野清志郎のすばらしいところは、それまでロックがどこかクールで都会的、そしてやや残酷な青春の発露のようなところがあったものを、美空ひばりや「ああ上野駅」と太刀打ちできる大衆性とせつなさを備えたロックパフォーマンスで、音楽の枠組みを超えたビートルズ以来の社会現象を日本人として初めてまきおこしたことにあると思います。彼のロックは残酷な青春とは程遠く、ラジカルな優しさに満ち溢れ、政治や社会へのメッセージを込めた歌もまた、「愛してるかい」と問いかけるラブソングでした。
1995年阪神大震災の被災障害者支援バザーがきっかけで、毎年開くことになった豊能障害者労働センターのバザーでは、いつもRCサクセションの名盤「COVERS」がBGMでした。
中でも彼の「イマジン」を聴くと、英語をしらないわたしにはジョン・レノンの原曲よりも心にせまってくるものがありました。
2009年5月2日に彼がなくなった時、衝撃と悲しみにおそわれた無数の人々の中に、わたしも豊能障害者労働センターのスタッフたちもいました。
願わくば一度は彼のコンサートを箕面でしたいと思い続けてきた豊能障害者労働センターは、この年のバザーの野外ステージではライブを中止し、ただひたすら「COVERS」を流しつづけました。それだけが豊能障害者労働センターの追悼の意をあらわすただひとの行動だったのでした。

以下の文章は、2009年5月、豊能障害者労働センター機関紙「積木」に寄稿したわたしの追悼文です。

忌野清志郎さん、あなたは逝ってしまった…。ぼくたちはあなたが大好きでした。
2009年5月9日、あの日ぼくたちが見上げた空はあなたの歌が鳴り響く青山葬儀場の空へとつながっていました。
いま、あなたの「イマジン」を聴きながら届かぬ手紙を書いています。
だれもが平和を願った21世紀は2001年9月11日のテロ、2003年のイラク戦争という、血塗られた1ページで始まってしまいました。
今こそわたしたちはいろいろな民族、文化、個性が助け合い、共に生きる社会、世界のどこで生まれても「幸せになる権利」を子どもたちに手渡せる社会、理想といわれても夢といわれても、そんな夢みる社会への希望を耕さなければならないと思います。「共に生きること」はとても勇気のいることで、でもその勇気を持てばぼくたち人間は武力から解放されると信じてやみません。
2003年から豊能障害者労働センターは春のバザーを「平和を願う大バザー」とし、売上金の一部を信頼できるNGOにたくしてきました。バザーはだれもが参加できる庶民の助け合いだからこそ平和でなければできないだけでなく、平和をつくりだすための「共に生きる勇気」を育ててくれると信じています。
忌野清志郎さん、いつからかぼくたちはバザーの準備をする時や何か困難に立ち向かおうとする時、あなたの「イマジン」を歌ってきました。1971年、ジョン・レノンが作ったこの歌はまたたくまに世界中に届けられました。ガンジーからキング牧師へとつながる非暴力による独立運動、公民権運動の果実は、キング牧師が暗殺された3年後に生まれた「イマジン」によって、平和を願う世界中の人々の心に届けられたのだと思います。そして忌野清志郎さん、あなたの心にも届くべくしてこの歌は届いたのですね。
あなたは「イマジン」の中で、ジョン・レノンの「ぼくは夢想家だと思うかい」という呼びかけに「ちがう、きみは一人じゃない。」と応えました。そして、ぼくたちにもそのメッセージを送ってくれました。
自分のいっしょうけんめいだけではどうすることもできない世界の紛争と死んでいく子どもたち、豊かといわれるこの社会で起こる悲しい事件をテレビや新聞で見ているだけのぼくたち。そして本来の活動である障害者の所得を生み出し、働く場を切り開き、自立へとつなげていくことの困難さからこのままでよいのかと身悶えるぼくたちに、夢みる勇気を捨てなければ「約束の地」がぼくたちを待っているのだとはげましてくれました。
ぼくたちに勇気をいっぱいくれた忌野清志郎さん、ほんとうにありがとう。
これからはあなたの「イマジン」をぼくたちの「イマジン」として歌い継いでいこうと思います。

夢かもしれない でもその夢を見てるのは
一人だけじゃない 世界中にいるのさ

忌野清志郎「IMAGINE」
2009年5月、豊能障害者労働センターのバザーの手伝いに行くと、障害者スタッフでムーミンのようなHさんがかけより、「つねこさん、ヒロシマのカバがな、なかなか手に入れへんねん」といいました。Hさんは俗に「H語」といわれるほど造語改語の名人で、この日も何を言ってるのか最初はよくわからなかったのですが、何度も聞いているうちに「キヨシローのカバーズ」だとわかりました。そのことがわかった時、Hさんもまた、キヨシローの死を深く悲しんでいることがつたわり、思わず涙がでました。

忌野清志郎「スローバラード」
2000年だったか2001年だったか、妻が箕面の「えんだいや」という居酒屋で働いていた時、Iさんや同じ豊能障害者労働センターのTさん、わたしの娘とわたしたち夫婦が大晦日の夜、箕面の滝の途中にある神社で年を越したことがありました。そのまま夜が明けるまでカラオケボックスに行き、Iさんのがなり立てる熱唱で「スローバラード」をききました。それまで恥ずかしながらオリジナルを聴いたことがなかったのでした。この映像で梅津和時がサックスで演奏するところを以前はギターで、あのギターは胸にせまるものがありました。
RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ
この歌はわたしの妻が大好きで、妻に敬意を表して紹介します。

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