フィクションやメルヘンが社会を変え、歴史をつくる 映画「ごはん」

今年のピースマーケットのサプライズは、なんといっても大ホールで映画「ごはん」の上映会が同時開催されることです。
この上映会はピースマーケットとは別の主催で開かれるもので、農民組合大阪府連合会が後援しています。
映画「ごはん」は、2017年の日本映画。日本人が余り知らない日本の米作りの現状をリアルに描きながら、美しい水田の風景やストーリーが観る人の感動を誘います。

実家が農家の若い女性ヒカリは、東京で派遣社員をしていたが、父が突然亡くなったとの知らせを受け、急いで京都府の実家に帰る。父の葬儀も済み、東京に戻ろうとする中、父が近所の農家30軒分もの米作りを請け負っていたことを知らされる。農作業を手伝っていた源八も骨折で作業ができず、各農家も自分たちで水田の面倒は見られないと言われて、ヒカリは途方に暮れる。当面、源八の足が治るまでと失敗を繰り返し、様々な人に助けられながらコメ作りに奮闘する。その仕事を通して亡き父の思いを少しずつ理解していく。

わたしはこの映画を観ながら、手法も目指すべき映画への考え方も大きく違うかもしれないですが、河瀬直美の「萌の朱雀」を思い出していました。
「萌の朱雀」は長い年月をささえてきた山里の家族が、一家離散する中でいとおしく限りなく美しい故郷を去って行くまでを、彼女独特のドキュメンタリータッチで描いた名作でした。
安田淳一監督の映画「ごはん」は、おそらく河瀬直美のような完璧主義ではなく、もっとゆるやかで、いい意味でのアマチュアリズムの自由なフレームを感じました。
そして、少し強引な言い方をすれば、山里と農村の決定的なちがいはあるものの、「萌の朱雀」の家族が去ってしまった「故郷」に「ごはん」のヒロインが帰ってきたと言えるのです。
その意味では、実際にお米づくりに格闘されている農家のひとたちに、ストレートにこの映画が受け入れられるのかはわかりかねます。
少女の頃に父親の作業をみていたにしろ、東京で派遣社員として事務の仕事をしていた女性が見よう見真似でお米作りができるなんて、ありえないことでしょう。
一方で、このありえない物語の背景にある農村や農業の実態が圧倒的な説得力で描かれています。
農業の担い手の高齢化や、お米作りでは生計を立てにくく、自分は野菜を作りながらコメ作りは委託するというやむにやまれぬ知恵によって、コメ作りが続けられていることなど、スーパーなどでお米を買ってなんの屈託もなく食べている消費者の傲慢さを自戒しました。
その厳しい現実があるからこそ、故郷で育ち都会で暮らしていたひとりの女性がコメ作りを決意するというフィクションというかメルヘンが切実なものとして迫ってきます。現実に、この映画のように都会で暮らしていたけれど親が亡くなり、能勢に帰って農業している友人がいます。
政治的な問題でも社会的な問題でも、よく「現実はそうはいかない」と言われます。「話し合いによる平和」などはもってのほか、軍事的な抑止力がないと平和は保てないと、専門家や識者たちはいいます。
しかしながら、わたしはありえないといわれるフィクションやメルヘンにこそ思想はあり、世の中や地域をほんとうに変革していくのはフィクションやメルヘンだと信じています。
その意味において、映画「ごはん」は農業の現実を知っている人だけでなく、この時代を生きる普通のひとびとのたくさんの夢や夢想を掻き立て、勇気づけてくれるに違いありません。
1人の女性の人生における「再生の物語」と、農村をはじめとする地方の「再生の物語」がぴったりと重なった奇跡の映画、それが映画「ごはん」なのです。

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