「わかちあう貧困」を友として、豊能障害者労働センターの場合

以前にも書きましたが、わたしは高校を卒業して建築設計事務所で半年働いたもののやめてしまい、ビルの清掃を3年、その後一年ほどは体をこわしたこともあり、働きにも行かずぶらぶらしていました。その4年間は大学紛争から70年安保と、大学生を中心に政治的な活動に身を投じる多数の若者たちの中にあって、わたしは世の中の体制を受け入れて一生懸命に働く若者でもなく、といって世の中に異議申し立てをし、「見果てぬ革命」を夢みる若者でもありませんでした。わたしから見れば、対立するどちらの側の若者たちもそれぞれの夢を持ち、生き生きとした若者で、それに比べて若者らしい覇気もないわたしは大人からも同世代の若者からも疎んじられる人間だったと思います。
その頃、生活費を切り詰めるためもあり、数少ない友だち数人と共同生活をしていました。それは今はやりのシェアハウスではなく、どもりで極度の対人恐怖症のわたしにとって社会的なつながりを持たないでいい密室空間で、今でいう引きこもりの暮らしでした。
ビルの清掃をしていた時、その会社で定年を過ぎたおじさんがパン屋の売店をしていて、わたしはそのおじさんにあこがれました。おじさんが退職した会社のビルでパン屋をする権利を勝ち取るためにどれだけの努力を必要としたのか、またおじさんが営むパン屋さんをよく思わない社員も少なからずいたことも、そんな事情から決して経営が成り立っていなかったことなども、若くて世間知らずのわたしには思いを馳せることができませんでした。ただただ、そのおじさんが自由に見えて、自分も早く年を取ってパン屋をしたいと思いました。
体を壊して清掃の仕事をやめた後は蓄えた貯金を切り崩し、昼頃に起きては夜中の2時3時まで起きているという不摂生な暮らしをしていました。近所の住人たちは過激派の隠れ家と思っていたかも知れません。実際、誰から聞いたのか、よく学生運動をしている京大生などが泊まらせてくれとやってきて、夜遅くまで議論したものでした。
わたし自身はひかれ者の小唄にもならない理屈をこねくり回すだけで、共同生活をしていた仲間と事業を起こしたいという漠然とした夢を実現する手立ても意欲もなく、息をこらすような日々をすごしていました。とにかく怖かった。他人や社会や会社や政治や大人たちや同世代の若者までもが怖くて、身を固くしながら誰にも知られず誰にも脅かされない場所に身を潜めて暮らしたいという、切なくて悲しくてわがままな自分を持て余し、思いまどう日々でした。
そんな無為の日々をいくら重ねても新しい道が開けるわけもなく、やがてひとりふたりと去っていき、共同生活が終わると同時に共同事業の夢もまた消えてしまいました。残された二人がわたしと妻で、やがてわたしたちは結婚し、新しい家に引っ越しました。わたしは4年間のヒッピーのような暮らしから抜け出し、あれほどかたく拒んでいた会社勤めを不器用ながらもはじめることになりました。

豊能障害者労働センターとの出会いは、わたしにとって第二の青春であっただけでなく、友人たちと助け合いながら働く共同事業を進めたいと願った若いころの夢をよみがえらせてくれました。床が抜けそうな和室の畳はぼろぼろで、2人の脳性まひの青年が行動できるバリアフリーどころか、普通の住宅としてもすでに役割を終えてしまっているような場所で、障害という個性を受け入れ、根拠のない希望にあふれた豊能障害者労働センターの事務所にはじめて行ったとき、「ここならぼくにも何かできるかも知れない」と思いました。
障害があるということで普通に学ぶことも普通に働くことも普通に生きることもこばまれるなら、自分たちで働く場をつくろう、自分らしく生きようと歩き始めた彼女たち彼たちの決意はそれを許さない社会とたたかう覚悟を必要としました。
わたしは豊能障害者労働センターの活動の中に、若いころに自分が夢みた共同事業が障害者の運動によってよりラジカルに切り開かれようとしていることに、興奮と感動を覚えました。そして、わたしもまたその夢を、わたしの生涯をかけても実現しないかも知れない巨大で未完の夢を一緒に見たいと思いました。
1982年は粉せっけんと募金活動だけでしたが、翌年の11月に事務所の一部でたこ焼きとおでんの店、84年に箕面市桜井のガレージで衣料品とたこ焼きの店、85年の12月に衣料品と雑貨の店と食堂を開店、また1984年から友人グループと共同でカレンダーの販売開始、1988年からはカレンダーの通信販売を始めました。1995年の阪神淡路大地震の時の大バザーをきっかけにリサイクル店の開店、1996年からは箕面市の総合福祉センター内に福祉ショップを開店、その後いくつの店を開き、いくつかの店を閉じて現在に至っています。
その間、国や大阪府からの助成はなかったものの、箕面市が独自に豊能障害者労働センターの活動に対して助成制度をつくりました。この制度は自治体の福祉行政のもとで、一般企業への就労をこばまれる障害者の働く場をつくりだそうとする画期的な制度で、本来なら生活保護を受けなければ実現しない障害者の自立生活を支えています。しかしながら、箕面市独自のこの制度も福祉の枠だけにとどまる以上、いずれは国の制度との整合性が問われる時が来ることでしょう。

わたしは1987年から16年間、豊能障害者労働センターで働かせてもらいました。それまでの5年間、運営委員としてかかわってきたものの、いざ会社を辞めてセンターで働き始めると、売れ筋の商品を開発する力も強力な販売網も持たない小さな障害者のグループが事業を起こし、その収入でみんなの給料をつくりだすことはとても困難なことでした。 福祉の枠で見るならば、公立の福祉施設や社会福祉法人のように職員と言われる健全者の給料は保障され、障害者は今でいう利用者ですから利用料は払っても給料はもちろん出ません。豊能障害者労働センターの場合は今でも年金をくわえれば障害者の所得の方が多くなるほど健全者の給料は少なく、たしかに障害のあるひとのないひとも給料を分け合ってはいるのですが、事業収入だけでは分けるべきお金をつくりだすことが困難なため、障害者も健全者も生活していくだけの所得に届かないのが現実です。
高度経済成長からバブルへとお金が渦巻く中、月末の給料日にお金が足らず遅配になってしまう恐怖とたたかう日々をしのいでいたわたしたちは、心のすみで世間や福祉行政をうらむ気持ちもありましたが、一方で福祉や社会保障という枠組みで豊能障害者労働センターの活動をとらえること自体が間違っているのかも知れないと、わたしたち自身感じるようになっていきました。
福祉や社会保障が富の再分配としてしかとらえられないとすれば、分配の在り方で対立するにしても所詮は経済成長を求めざるをえないことになります。しかしながら、経済成長を求める経済や社会こそが「生産性」という名のもとに障害者を排除してきたのだとすれば、今大きな問題となっているワーキングプアや非正規雇用の問題よりもずっと以前から、豊能障害者労働センターは成長神話から排除される障害者として資本主義の限界地点に立っているのではないかと、水野和夫氏の著書「資本主義の終焉と歴史の危機」を読み、思い当たりました。
そして、豊能障害者労働センターがサッチャーイズムやレーガノミクスが席巻した時代からワーカーズコレクティブや社会的企業への関心を深め、制度的にはまったく保障されていない中、実際の活動においては実績を積んできていることは間違いありません。
水野和夫氏が分析する資本主義の終わりが決して世界の破滅ではなく、今よりは希望を持てる新しい世界の始まりであることを証明することになるかも知れない実験を、豊能障害者労働センターはくりかえしてきたと言っても過言ではないでしょう。
たとえば、ワークシェアリングすることによってひとりひとりの所得は減っても格差も減らすことや、利益という名のストックを持たなくてもいいゼロ成長とゼロインフレのすすめや、分配のパイを増やすために貧困地域をつくりださないことなど、今日の糧を得るためにやむを得ずそうせざるを得なかった事情はありますが、豊能障害者労働センターはこれからも「わかちあう貧困」と「助け合い」という友人とともに先駆的な活動をつづけていくと確信します。

豊能障害者労働センター・積木屋のホームページ

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