対等なパートナーになることを阻む福祉・相模原事件から1年。

昨年の7月26日未明に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺された事件から1年が過ぎました。
犯行後も「障害者は死んだほうがいい、安楽死させるべきだ」、「重度の重複障害者は殺すべきだ、いなくなったほうが社会のためになる」と障害者差別発言を繰り返し、実際の犯行に及んだ容疑者の非人道性と残虐性は極まっています。
障害者施設「津久井やまゆり園」は1964年に設置された定員160人の知的障害者の入所施設で、4月末時点で19歳から75歳の人たちが個室に1人か2人が入所し、約40人が60歳以上とみられ、全国の障害者施設と同様に重複障害を含む重度化と高齢化が進んでいました。
一年たった今も、家族による障害者の生い立ちや職員による施設での暮らしの一端が報道され、「死んでいい命などひとつもない」と、犯行に及んだ加害者への強い憤りが噴出する一方で、家族への配慮を理由に殺害された障害者の実名は公表されず、いのちを奪われたひとりひとりの障害者が生きていたことすら暗闇の中の19という数字でのみ済まされる理不尽さにこそ憤りを感じるのはわたし一人ではないと思います。
事件後、神奈川県はやまゆり園を建て替える方針を決め、当初は現在とほぼ同じ約150人規模の施設を再建する案を示しました。これに対し、障害者団体などから「社会との隔絶につながる」などと異論が噴出し、県が設置した専門部会では、障害者がグループホームなどを利用して地域で暮らす「地域移行」を進める前提で議論が進み、建て替え後の 施設を現在より小規模化する案が検討されているそうです。
高度経済成長期に障害者を排除するために収容施設をつくり、障害者を家族からも友人からも働く場からも生活の場からも隔離してきた福祉施策そのものが、「障害者は社会に役に立たない邪魔な存在」として殺害に及んだこの残虐な加害者の背中を押し、犯罪に加担したと指摘する障害者の声が反映され、障害者を地域に返す方向へと進んでいるとすれば、理不尽にうばわれた19のいのちへのこの社会の謝罪とせめてものたむけになるのかもしれません。
「誰でも生きる権利がある」といいながら一部の障害者を閉じ込めたり、社会の健全者幻想で障害者を拘束するのではなく、彼女たち彼たちが帰るべきところに帰り、「障害者を必要とする社会」へとこの社会が変わらなければ、誰もが平和に暮らせる社会はやってこないのではないでしょうか。
わたしは1981年の国際障害者をきっかけにはじめて障害者の問題を身近な暮らしの中で考えるようになりました。それまで障害者の様々な問題は本人が障害を持っていることが原因としか思っていなかったわたしは、「障害という際立った個性を持っているというだけで当たり前に学ぶことも当たり前に働くことも当たり前に夢見ることも当たり前に生きることも拒む」社会の方にこそ問題の原因があることを、また「ある社会がその構成員をいくらかでも締め出すような場合、それは弱くてもろい社会である」という言葉に目からうろこでした。
そして、日本の障害者が長い歴史の暗闇の中でどんな差別と理不尽な仕打ちに耐えながら生き、死んでいったのかということも…。
国際障害者年をきっかけに、ノーマライゼーションという聞きなれない言葉が少しずつ世の中に浸透し、インクルージョン、バリアフリー、ユニバーサルデザインなど、カタカタ語の氾濫とともに日本の福祉は模様替えをしてきましたが、今回の事件でその底流にあるものがあまり変わっていないことも露呈されました。

くしくも7月27日、旧衛生保護法のもとで強制的に不妊手術を受けさせられた宮城県の知的障害といわれる女性が手術の記録を県に求めたのに対し、県が26日に、この女性が15歳の時に手術を受けたことなどを記した「優性手術台帳」を開示したとマスコミ各社が報じました。この女性が中学3年の時にくらしていたのが親元なのか施設なのかは記述されていませんでしたが、親族は中学3年で受けさせられていたことを知らなかったと報じています。
1948年に制定された旧優生保護法のもとで「不良な子孫の出生を防止する」として、同法が廃止される1996年まで男女とも約1万6500人が強制的に不妊手術を受けさせられ、同意を得た上での不妊手術・中絶を含めると約8万4000人が犠牲になったとされます。
つい20年前まで続けられた女性障害者への不妊手術は、障害者差別と女性差別の極みで、役に立たない障害者を地域社会から隔離し閉じ込めるだけでは飽き足らず、障害者を生まれてきてはいけない存在として抹殺してきた「国家の犯罪」以外の何物でもなく、今回の犯罪の加害者とどこが違うのでしょうか。
1960年代後半から70年代にかけて障害者の親が子供を殺す事件が相次ぎ、障害者施設が無いゆえの悲劇として同情的に報じられ、減刑嘆願運動の末に無罪や減刑判決が出ました。そして障害者施設の建設による介護者の負担軽減が必要と受け止められました。
それに対して、脳性麻痺者協会・青い芝の会は、障害者は殺されても当然の存在とみなし、「本来生まれるべきではない人間」、「本来あってはならない存在」とする健全者社会の方にこそ問題があり、そうした健全者社会の差別に対して強烈な異議申し立てをしました。
その活動は社会から「過激」とされ、マスコミにも取り上げられ、社会問題となりましたが、一方で彼女たち彼たちの活動に勇気を得た若い障害者やその仲間たちが、青い芝の運動をひとつのバイブルとして障害者運動をはじめるきっかけにもなりました。
わたしが参加していた豊能障害者労働センターもその活動の端っこにありました。
1990年代に、青い芝の会の一員の横田弘さんが大阪に来られて発言された言葉が忘れられません。
1990年代には障害者の運動の成果として自立生活運動が確立しはじめ、障害者自身が経営を担う障害者事業所や作業所も全国に少なからず生まれ、活動を活発化させていた頃でした。
障害者とその友人の健全者が協働しながら障害者の人権を獲得しようという時代に、青い芝運動の「健全者は敵だ」とか、「愛と正義を否定する」とか、「問題解決の道を選ばない」というのは、時代遅れではないかという質問に対して、「自立生活センターができたとか、障害者の働く拠点ができたとか、障害者の運動が成果を出しているというのは幻想ですよ。この国は昔も今も、いつでもわたしたち障害者を殺す準備をしていることを、決して忘れてはいけません」…。
わたしが横田さんのお話を聞いたのはその時が最初で最後でした。わたしはこの障害者運動の伝説的存在の横田弘さんの言葉が遺言のように聞こえました。
相模原事件を知った時、この言葉が真実であることを実感しました。国家自身が手を下さなくとも、国の障害者施策そのものが差別を増殖させ、このように事件がまた起こるのではないかと心配です。
そして、その心配は障害者だけに向けられるのではなく、この閉塞した時代を生きるわたしたち誰もに向けられるものであることを、安倍一強と言われる今の政治状況が教えてくれているように思うのです。

旧優生保護法 知的障害者に不妊手術 開示記録で裏付け 毎日新聞

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