世界の終末にもう一つの世界が生まれる希望はあるのか

斎藤幸平の「人新世の『黙示録』」は絶望の書か希望の書か
右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。(鶴田浩二「傷だらけの人生」)
斎藤幸平の「人新世の『黙示録』」を読みました。この本で斎藤幸平は未来が暗く悪くなることを受け入れ、暗黒社会主義というかなり刺激的で挑戦的な提案をしています。
2020年に刊行され、話題になった「人新世の『資本論』」から6年、もはや気候変動は気候危機となり、テック企業による資本主義が「終末ファシズム」へと突き進む近未来の破滅が避けられなくなったと斎藤幸平は言います。パンドラの箱から飛び出した力による支配、大国による世界支配の流れはAI革命を頂点とて暴力の連鎖、世界各地の無数の貧困とごく少数の大富豪を生み出し、抜き差しならぬ悲劇がすでに始まってしまったということでしょうか。
その流れはわたしたちの日本社会にも猛スピードで押し寄せています。武器輸出の解禁をはじめとする軍事産業の育成、国旗損壊法、緊急事態条項の追加と9条の改変をめざす憲法の「改正」など、高市首相がこの社会を変えるロードマップができあがろうとしています。異常な支持率を背負って実行する彼女がよって立つものは、明治維新以後のこの国の支配層が登場人物と物語を作り変えながら綿密にバトンをつないできた「帝国」、第二次世界大戦で崩れ去った「帝国」の復権なのだと思います。
永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
「積極財政による経済成長」という神話をばらまき、それを信じるひとたちのヒーローを演じながら今にも倒れそうな悲劇のヒロインを同時に演じ分ける才能は、アイドル文化に代表されるエンターテイメントの時代にぴったりはまっていて、一部でおぞましいとしか思えない立ち振る舞いがますます「推し」をつくりだす構造に驚きと恐怖を感じます。
ますますわたしたちは自分の知りたい情報だけで生きることに慣れてしまい、スマホにあふれる情報の洪水におぼれながら暮らしているように思います。高市早苗という、政治家といっていいのかわからない人に国家の権力を渡してしまったこの社会の未来を暗いと思うひとよりも明るいと思うひとの方が多いのもまたほんとうのことなのでしょう。
世界各地の紛争と戦争でおびただしい銃声と爆弾が落ちてくる毎日、虐殺が日常になってしまった社会から見れば「お花畑」に見える社会にわたしたちが生きていることは間違いないのでしょう。しかしながら、選挙制度のからくりと、エンターテイメントに侵されてしまった結果、わたしたちの「民主主義社会」は猛スピードでかつての「帝国」へと回帰し、「民衆ファシズム社会」へと墜ちていく途上にあると思うのはわたしだけでしょうか。
かつての輝きを取り戻そうとする高齢者の世代と、非正規雇用で今日明日の暮らしをしのぐ若い人たち、未来に夢も希望も持てず小学生が死を選ぶことすらあるこの社会ではすりガラスの向こうのぼんやりとした未来がますます影を深くしています。
斎藤幸平の「人新世の『黙示録』」は、そんなわたしたちに「未来はどんどん暗くなる、希望はない」ことを受け入れほかないと言います。気候危機はもう始まってしまって止められない、その現実をつくりだしたテック企業をはじめとする資本主義がそのスピードを加速させた結果、世界の富は彼らに集中し、気候危機がもたらす自然破壊は世界のひとびとをより貧困に陥れる。世界の富を独占する彼らだけが「豊かに」暮らせる別世界を構成し、それが厳しくなればこの地球を見放し、別の惑星に移り住む。こんな夢物語が実現するとは思えませんが、それが新しいイノベーションを生み、世界経済を支配しています。
ドブネズミみたいに美しくなりたい ドブネズミみたいに誰よりもやさしい
斎藤幸平は世界の富を独占する資本主義と立ち向かい、彼らから富を取り返し、気候危機からくる窮乏社会を民主的に分かち合う社会を実現する「暗黒社会主義」という、大胆な提案をしています。
ここで彼がよりどころとするのがマルクスです。資本主義の黎明期から200年の時を越えても世界の政治経済に影響を与え続けているこの巨人は、ソビエト連邦の解体が社会主義の「敗北」とされてからは古い時代の思想家とされていました。その一方、近年は斎藤幸平、白井聡、柄谷行人など、日本でもたくさんのマルクス研究者によって見直されています。
60年ほど前になるでしょうか、わたしがまだ若かった頃、政治運動が吹き荒れていた頃に街頭で演説していた同世代の大学生がよく叫んでいた「階級闘争」や「プロレタリア独裁」という言葉を聴きながら、そもそもそのプロレタリア階級にわたしが属しているのかが良くわかりませんでした。そして、中国やソ連など社会主義国と資本主義国が、自由経済か計画経済かを経済成長率で競争しているのをなんとなく変だなと思っていました。
そんなわたしが社会主義に「目覚めた」のは、ずっと後に17年務めた工場をやめて豊能障害者労働センターの障害者たちと出会ってからでした。障害者と言われる彼女彼らはひとりひとりまったく違ったかけがえない個性を持っていました。とにかく働いていなくてはだめな人がいる一方、まったく仕事をしたくない人もいて、そんな彼女彼らが楽しく寄り集まり、時には激しい喧嘩をしたりしながら友情をたしかめあう。その中に自分の居場所をみつけたわたしは、ひとはみんなちがっていて、また日々変わっていく、こんな当たり前のことをあらためて教えてもらいました。
そして、若い時に社会主義や共産主義に違和感を感じたのは「みんな同じ」であることを社会に押し付けられる違和感で、実はそれは社会主義や共産主義だけでなく、資本主義社会もまったく同じで、どちらもが経済成長で競うわけもこの時わかったのでした。
栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう
豊能障害者労働センターで働きながら、わたしはいつしか「うるう餅の共産主義」を夢見るようになりました、一人一人のとがったぶつぶつが残ったまま引っ付いている社会。ひとを「能力」や「成果」で引き算していく社会ではなく、ひとりひとりが自分らしく生き、助け合っていく足し算の社会…。世間から見たらきれいごとにしか思えないそんな社会が自分のまわりあることがうれしくて、わたしはいつのまにか国家とか世界とかがとても遠くに感じられ、この小さな世界をつないでいく、いまの言葉で言えばミュニシパリズムを広げたいとおもうようになりました。
斎藤幸平が推奨する「暗黒社会主義」の中身である「計画経済」とエコプロレタリアート独裁という提言は実現が難しいとは思います。わたしもふくめて人間の欲望は果てしなく膨張しそれを拒むことはとても難しいことです。けれども、もし人生のラストシーンをすべて自己責任で描くのではなく、また国家が描くことで自由をうばわれるのでもない、もっと身近な共同体のコモン(共有資源と財産)の助け合いによって描かれる安心があれば、ひとは私的な欲望を抑えられるかもしれない。わたしは豊能障害者労働センターに在職時、その「もしも」を垣間見ました。
暗黒社会主義が夢物語か個人の自由を奪うだけのものなのか、この実現不可能と思われる提言を無視することは簡単でしょうが、こんな提言をまだ若い思想家がしなければならないほど、現実の社会もこの地球も破局へと進んでいることは間違いないと思います。
イーロン・マスクやピーター・テイールが描くAIテクノバブルの崩壊がすでにはじまっていると思う以上、わたしたちは彼らの誘惑に負けるわけにはいかないのですから…。


