メンデルスゾーンとわたしの青春・桜の庄兵衛ギャラリー100回記念コンサート

5月12日、桜の庄兵衛ギャラリーで開催された「若葉映える母の日のコンサート」に行きました。なんと、今回で100回目になる記念のコンサートでした。
「桜の庄兵衛ギャラリー」は江戸時代の姿を残す庄屋さんの民家で、阪神淡路大震災で大きな被害にあいましたが1998年、修復再生を機に本来客間であった五十畳余りの空間をギャリーとして開放し、コンサートだけでなく木工、陶器、染め物などのアート展示場としても幅広く利用されています。
大きな門から広々とした土間を通り、5月の風が若葉を躍らせる庭につづくギャラリーの大広間に入ると、大きな柱と梁と白い障子戸、見上げると高い天井から暖かいライトがやさしく会場を包んでくれます。「桜の庄兵衛ギャラリー」に入るだけで心があらわれる気持ちになり、これから始まる演奏への期待を膨らませてくれます。
2015年、ヴィオラ奏者の吉田馨さんからお誘いを受け、彼女の演奏会にお邪魔して以来、まったく縁がなかったクラシックのすばらしさを教えてくれたのは桜の庄兵衛さんでした。
音楽にくわしくなく、いつもはじめて名前を知る演奏家ばかりなので、その時の演奏の良しあしはわかりません。しかしながら、幅広いジャンルの音楽をこのギャラリーの庭と大広間の空気がつながる空間の中で、楽器たちが自らの生まれた場所に帰り、その瑞々しさを取り戻していくような生き生きとした音楽に包まれるのでした。
その中でも72歳になるまでもっとも遠い音楽だったクラシックに触れ、専門的な音楽知識がなくても違和感を持たないで演奏の場にいられる幸運をくれた桜の庄兵衛さんに感謝しています。

さて、今回のコンサートは岩谷祐之さんのヴァイオリン、北口大輔さんのチェロ、鈴木華重子さんのピアノによる、ピアノ三重奏曲の演奏でした。
後で調べるとこの楽曲は38歳という若さで亡くなったメンデルスゾーンの30歳の時の作品で、この曲を聴いたロベルト・シューマンが「ベートーヴェン以来、最も偉大なピアノ三重奏曲」だと評したとあります。
もちろん、今回もそんなに有名な楽曲とはまったく知らないわたしでしたが、3人の演奏が始まると、老人になった今も心の中に記憶している若き頃の恋心、人生への不安と夢…、決して明るくなかった青春の疼きと渇きがよみがえるのでした。
ああ、振り返ると人生はこんなに短く、時代はぬかるんだままで、記憶の中でわたしは20歳の青さを追体験しているのでした。
世界中が眠りを貪り食っているというのに、わたしは大阪梅田の、今はなくなってしまった深夜営業の喫茶店「田園」の片隅の椅子に座り、朝まであるひとを待っていました。
そしてまた、船底のようなライブハウスでなぜかボブ・ディランの「時代は変わる」がかかると、みんなが踊りをやめたフロアでただひとり、そのひとは何かにとりつかれたように踊っていました。
ゴダールの「勝手にしやがれ」と唐十郎の「ジョン・シルバー」、寺山修司の「初恋・地獄篇」、映画館のスクリーンに現れては消える他人の人生に行方不明になりながら、朝の路上に放り出された火照る体と冷たい心を引きずり歩いたあの日…。
瑞々しく情熱的なメロディーがわたしの心を打ち続け、甘美な香りが会場を包むようにあふれてきて、ふと気づくと涙がこみあげてきました。クラシックで泣くことなどないわたしですが、若々しさと切なすぎるメロディーを演奏する3人のピアノとバイオリンとチェロが絡み合い、まるでセリフを叫んだり独り言をつぶやいたりと、一本の演劇を観ているようで、専門的なことは別のひとに任せておいて、わたしは青い時代の恋する心を遊ばせていました。50年以上も前のわたしに何か言ってあげようと思っても、人生は一回限りで、ちがう生き方ができるはずもないのでした。
それにしても、このかぎりなく情熱の火を燃やし続けるような演奏はどこから来るのでしょう。3人の演者はとても優れた演奏家なのでしょうが、どこか初々しく感じられ、ああ、これがもしかするとメンデルスゾーンの魔法なのかと思いました。
この楽曲が生まれた1839年から180年もの長い年月、世界中のどこかでこの楽曲が流れない日は一日もなかったにちがいない、そう思うと人の一生よりずっと長い時間を生きる音楽の持つ底力というべきか、国境も時代も越えて、愛を必要とする心に確かに届く音楽、それがクラシック音楽の幸せな夢なのだろうと思いました。
そしていま、大阪府豊中市、阪急岡町駅10分の、桜の庄兵衛さんという古民家ギャラリーで最高の演奏が生まれる瞬間に、わたしは立ち会うことができたのでした。
それはまた100回記念コンサートにふさわしく、この建物の記憶された音楽が3人の演奏家と楽器にふりそそぎ、惜しみない祝福を贈ってくれたのだと思うのです。

ブラームスを教えてくれたのは吉田馨さんですが、メンデルスゾーンもまた、この歳になって心に深く残り続ける甘酸っぱい初恋のような音楽でした。
第2部はそのブラームスのピアノ三重奏曲 第1番 ロ長調 作品8でした。演奏者が言うように、こんな深い音楽を続けて演奏することはよほどの覚悟がいるのかも知れません。これもまた、100回記念コンサートがなせる業なのでしょう。
この楽曲もまったく聴いたことがないので、そんな人間が音楽を語る資格がないのは承知で、今回のコンサートではまずはメンデルスゾーンで聴く者の心をわしづかみにしておいて、あいだにジャズのようなヘンデルをはさみ、ブラームスでは情熱をやや抑え、まるで川の流れのような端麗で透明な心の光と影を写し見るような演奏に聴こえました。

100回記念コンサートを終えた桜の庄兵衛さん、これからも素晴らしい音楽を体験させてくださることでしょう。思えばその日に昼の部と夜の部の2回公演という、ある意味演奏家泣かせの贅沢なコンサートに参加できた人の数は200人として延べ2万人ということになります。すごいことですね。

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