圧倒的な若さが世界を変える大きな力となる 堀江トリオ
桜の庄兵衛 米蔵こけら落しにふさわしいコンサート
10月7日、豊中市岡町の桜の庄兵衛で、堀江トリオのコンサートがありました。チェロの堀江牧夫さん、ヴァイオリンの堀江恵太さん、ピアノの堀江詩葉さんの堀江兄弟妹によるコンサートは、桜の庄兵衛でチケットが取りにくい人気のコンサートです。
特に今回はオ-ナーの宿願だった米蔵のホール再生工事が完成し、これまでのギャラリーではなく、米蔵での杮落としコンサートだったこともあり、わたしがいつも希望する昼の部は一日で売り切れてしまい、夕方の部でやっとチケットが取れた次第です。
桜の庄兵衛さんで彼女彼らの演奏を聴くと、その圧倒的な若さと瑞々しい演奏に、年老いたわたしの心の底に眠っていた青春のきらめきと痛みが目を醒まし、懐かしさとほろ苦さと切なさがないまぜになるのでした。もちろん、その圧倒的な若さとは未熟ということとはまったく違い、一度きりの若さの特権ともいえる怖れを知らない冒険心と希望の光が、あまり時間が残っていないだろうわたしの人生までも照らしてくれるのです。
楽器が招き、授ける無償の愛、新しい時代から届けられる愛と勇気
新型コロナ感染症やウクライナ戦争など頻発する紛争でかつても今も無数のいのちが奪われ、傷ついた子どもたちの悲鳴が絶えることがありません。
しかしながらひとは武器を捨てて楽器を持ち、奏でることを学んだからこそ、理不尽な歴史を潜り抜けてこられたのだと思います。今回のコンサートで、あらためてそう強く実感しました。
わたしは音楽を癒やしで語ることはあまり好きではないのですが、時と記憶の芸術である音楽ががれきの下から立ち上り、その下にあったたったひとつぶの涙さえもひとつひとつの音に変え、時代という広野に採譜する力を信じてやみません。
かつて窓のすぐそばで爆音がとどろいてもピアノを弾きつづけたピアニストがいたと聞きましたが、いまこの北大阪の小さな会場にあるピアノもヴァイオリンもチェロも物体・オブジェを離れた音楽の幽体となり、若き演奏家たちに悲惨な現実の向こう側にあるかもしれない一本の希望の弦を撃ち震わせたのかも知れません。
もしかすると、演奏家がまず学ぶことは楽器の声を聞くことなのかもしれません。それは、音楽が授けるほとんど無償の愛…、新しい時代から届けられる愛と勇気なのだと思います。
堀江牧夫さんのチェロと堀江恵太さんのヴァイオリンによる始めの一曲は19世紀の世紀末、当時33歳のノルウェイのJ・ハルヴォルセンが作曲した「ヘンデルの主題によるパッサカリア」でした。 この楽曲はその約200年前のヘンデルのハープシード(チェンバロ)組曲から二重奏曲にしたもので、今回はヴァイオリンとチェロで演奏されました。
チェロの低い旋律の上を踊り跳ねるようにヴァイオリンの美しいメロディーが早くなったり遅くなったりしながら重なり堕ちる演奏はとても肉感的で、桜の庄兵衛さんの米蔵に最初に舞い降りた音楽に立ち会えたわたしたちに至福の時を届けてくれました。
堀江詩葉さんのピアノが加わった次の楽曲はR・シューマンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品63、1847年6月に妻クララの誕生日を祝って書かれ、メンデルスゾーンやブラームスのピアノ三重奏曲と並ぶ名曲として有名な作品とのことでした。わたしの少ない音楽体験による乏しい感想ですが、シューマンの楽曲の美しすぎる旋律はどこか寂しく不安定で、その繊細なリリシズムに心をかきむしられるようでした。
音楽は時として数多くの人を救済する一方、一人のあり余る才能を持て余す芸術家に愛と隣り合わせの地獄を用意することもあるのだと、シューマンの人生と音楽に感じます。
そんなことに思いめぐらせながら聴いていて、この楽曲は多感な若い彼女彼らに演奏されることが幸せなのだと思いました。
国境が移動するヨーロッパ大陸のひとびとの受難と悲鳴と希望の音楽
休憩をはさんで後半の一曲目はN・パガニーニの、ロッシーニの主題「エジプトのモーゼ」による変奏曲で、詩葉さんのピアノと牧生さんのチェロが真新しい米蔵空間を揺らしました。
パガニーニはイタリアの作曲家で、特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得しました。作曲した楽曲は彼のヴァイオリンの高い技術に裏付けされた難曲が多いとされていますが、音楽的冒険と野心にあふれたこの楽曲の破局性までも伝わってきて、切ない気持ちになりました。
次の曲は恵太さんのヴァイオリンと牧生さんのチェロで、S・コダーイの、ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲作品7の第三楽章でした。
この楽曲は今回のコンサートでも異質に思いました。二人のデュオは不協和音も恐れない大胆で躍動感あふれる演奏がもっとも近しい友としての信頼感に裏付けされていて、心躍る演奏でした。民族音楽家、言語学者、そして教育者でもあったハンガリーの作曲家・コダーイはハンガリーのアイデンティティである民族音楽を各地で採集しましたが、例えば日本の作曲家でつい最近亡くなった一柳慧や武満徹が試みた日本の伝統音楽との融合や、中山晋平が全国各地の伝承民謡を探して採譜したことなどにつながっていると思いました。
そして、最後の楽曲は、B・スメタナの、ピアノ三重奏曲ト短調作品15でした。楽曲紹介や解説をしていただいたお父様の堀江政生さんがおっしゃるように、スメタナといえば「モルダウ」(交響詩「我が祖国」第2曲)を連想しますが、この日演奏されたピアノ三重奏曲は幼い娘が病気で亡くなるという不幸に見舞われた時期に作曲されたそうです。
スメタナが1848年にボヘミアで起こった革命に参加し、国外で亡命生活を送っていた時でした。この時期の前後もふくめ、幼い娘を3人と妻まで亡くし、本人は耳が聞こえなくなるなど病に苦しみ、再婚した妻との不仲など、プライベートな不幸に何度もおそわれながらも作曲活動をつづけましたが、やがて精神的な病から波乱万丈の人生を閉じました。
わたしにはクラシック音楽を理解する力がなく、この曲にスメタナがどんな思いを込めたのかはわかりませんが、音楽を続けることでしか生きるすべがなかったのでしょう。この楽曲の持つ極度の悲しみの底からそれでも希望の光を求める感情の起伏の激しい落差は感じることができたように思います。
桜の庄兵衛米蔵に刻まれた時のラブソングはいま始まったばかり
そんな悲しみを隠した楽曲なのに、わたしには堀江トリオがこの日の演奏の中でも穏やかななごみに包まれ、この日のコンサートでたどりついたお互いの納得というか、彼女彼らが演奏を楽しんでいたように思いました。
わたしはその時、この三兄弟妹の若き演奏家たちの家族であるがゆえの葛藤と同じくらい、別のユニットでの演奏ではたどりつけない領域で結ばれていることを感じました。それは一方で疎ましく、一方でそれぞれの演奏家としての勇気を育てることでもあるのかなと勝手に想像してしまいました。
彼女彼らの圧倒的な若さはきっと、世界各地の様々な分野で芽生えつつある「世界を変える」大きな力の一つで、これから先、ひとりひとりが世界の舞台に立つ日が来ることでしょう。その時、桜の庄兵衛さんの米蔵コンサートで、時にはたたかいの翼を休ませてもいいと思える堀江トリオというユニットが、わたしたちに時の宝物を届けてくれることでしょう。
今回もまた専門的なことをまったく知らないまま感じたことを書いてしまい、演奏家にも主催者にも申し訳ないと思います。お許しください。