学校はだれのためのもの?

3月13日の朝日新聞夕刊が、大阪府立和泉高校の卒業式で、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加え、実際に歌ったかどうかを管理職が口の動きでチェックし、校長が府教委に報告、橋下徹市長にも直接メールで伝えたと報じました。
橋下さんは「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送ったということです。
この記事を読んで思い浮かぶのは、サッカーの国際試合の時に君が代が演奏され、カメラが選手たちの口の動きに注目し、ひとりひとりを映す場面です。
昔はかなりの選手が歌っていなかったのですが、最近は歌っていないひとはほとんどいません。いや、もしかすると口パクかもしれないのですが…。
それはさておき、ずいぶん以前から学校の「君が代」問題は子どもが歌う歌わないの問題ではなく、先生が「君が代」を歌う歌わないという問題になり、歌わないのは公務員の職務規定に違反しているので、条例をつくって取り締まろうということになってしまいました。
わたしは橋下さんがすすめる大阪市や大阪市役所の改革をすべて否定するわけではありませんが、教育改革と彼が呼んでいるものについてはとても危ないと思います。
わたしはたとえ他の国が国歌を持っていようがいまいが、わたしたちの国が国歌を必要とし、それが君が代であろうがなかろうが、ひとつの歌を歌う歌わないでだれかを処分したりする社会であってはならないと思っています。歌は決して強制されて歌うものではなく、また決して歌によって子どもたちを束縛したりすることがあってはならないし、社会の一員であるかないかをためす踏み絵のように歌が利用されることがあってはならないと思います。
ましてやほんとうに歌っているかをチェックするようなことを校長先生や教頭先生がしていたのを知って、子どもたちはどんな気持ちを持つでしょうか。自分たちの頭の上で吹き荒れる嵐が通りすぎるのを待ちながら、「空気を読んで」何事もそつなく生きることを学び、できるだけ目立たないことで大人の暴力から身を守ろうとするのではないでしょうか。
橋下さんは、国際競争力に勝てる人材を育てる教育改革をすすめたいとしていますが、教育を政治が介入できる行政サービスとみなし、学校をマネジメントの対象とするのは、無理があるのではないでしょうか。こどもたちは生きている人間で、しかもひとりひとりちがっている人間で、工業製品とは違うのです。
学校選択制を導入し学力テストの結果を学校別に公表、保護者が学校を選べるようにすること、3年連続で定員割れした学校を統廃合すること、学力不足の子の留年を検討すること、保護者や校長が教員を評価し、不適格教員を現場から外すことなど、そこには学校の主体であるべき子どもたちの生き生きとした姿がありません。
橋下さんに限らず、いつも大人は子どもたちを自分の意のままにしようとしてきました。ほんとうのところ、学校が子どもたちのものであったことは一度もなく、「なにをするかわからない子ども」を社会から隔離し、教育することで社会の都合のいい人間をつくっていくために作られた学校は、監獄と似ているという人もいます。
そこでは子どもたちはそのシステムに自分を合わすか、それにあらがうか、それに押しつぶされるかで、優秀な子どもになったり不良になったりひきこもりになるしかありません。それはまた、大人であるわたしたちの社会の縮図でもあります。かつて市民が見張り合い、密告する社会がありましたが、今の社会は見張り合うというよりいつも見張られている脅迫観念と、得体の知れない権力に監視されているという妄想にとりつかれているように思うのです。
国際競争力に勝てる人材が必要なのか、わたしは疑問に思いますがが、百歩譲ってそんな人材が必要だとしても、橋下さんたちの「教育改革」でそんな人材が育つとは到底思えません。他人の目を気にしていつもおびえ、短期の成果に一喜一憂し、他人をライバルであっても友だちと思えないさびしい大人を増やすだけだと思うのです。

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