わたしと同い年の日本国憲法はベストフレンドでした。安保法施行に思うこと。

3月29日、安保法が施行されました。
何度も言いますが1947年生まれのわたしは、日本国憲法と同じ年に生まれました。「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を基本とするこの憲法では、一部の人間が国民の人生や命までも支配するのではなく、国民ひとりひとりが国の行く末を決める権利があることと、出自や信念や障害という特徴や単に性別で括ってはいけない社会的少数者などをふくむ国民ひとりひとりの基本的人権の尊重がさだめられました。そして戦争でおびただしい血が流され、無数の命が奪われ、飢餓によってさらに無数の子どもたちや大人たちが息絶えていく惨状が続く中で、日本人だけではなく世界のひとびとの「二度と戦争をしない」という決意を託されて、日本国憲法が誕生したのだと思います。
その意味においてはこの憲法は世界の人々の「不戦の誓い」と、人類に残された最後の希望そのもので、だからこそ「日本の自前のものではなく、戦勝国に押し付けられた憲法」と言われながら戦後70年の時を経ても日本国内だけではなく、世界のひとびとの道標とされたのだと思います。
とはいっても、その間に「戦力の放棄」から「専守防衛」へと軍事力を認め、増強してきたわたしたちの社会は、少しずつ軍隊のある「ふつうの国家」をめざして歩んできたこともまた事実です。その中で憲法を変えようとする人たちは「理想と夢で国を守り、国民を守れるはずがない。日本が戦後70年曲がりなりにも平和な社会だったのは理想主義の青臭い日本国憲法のおかげではなく、日米安保条約のおかげだ」と言い続けてきました。そしてわたしの子どもの頃はソ連が攻めてきたら、今は中国や北朝鮮が攻めてきたら、あんたはどうするの?親や子供や家族を誰が守るの?だから、そうならないために、うかつに手を出すと痛い目にあうと仮想敵国に思わせるために抑止力を高めなければならない。それがほんとうに国家や国民を守る責任を持った行動なのだと言います。
わたしはとても臆病で対人恐怖症のどもりで、安保法制が必要だと声高に言う人たちに言い返すことが苦手なだけではなく、それに反対するひとたちのように自分の意見をきちんと言うこともできません。どちらの側からも、昔も今もはっきりせん奴で頭も口も身体ももぐもぐ、もじもじするだけの風采の上がらない奴としてここまで生きて来ました。
若かった頃は70年安保闘争のさ中で同年代の大学生がたびたび叫ぶ「人民」という言葉に違和感がありました。というのはその人民という中には、わたしのようなアカンタレが入っていないと感じただけではなく、もし彼らが叫ぶ「革命」が実現した時、青年らしさもなくどんよりと暗い性格で社会性の微塵もなく、ビルの清掃で暮らしを立てながらただひたすら身を隠し逃げ続けるわたしは、真っ先に粛清されるのではないかと思ったものです。
そんなわたしでも日本国憲法をともだちと感じていましたし、時には恋人とも思ってきました。きちんと読んだことはなかったものの、日本国憲法はいつも心を硬くとじこめ、膝をかかえながら世の中を怖がっていたわたしの「生きていてもいいですか」(「エレーン」中島みゆき)という切ない問いにも「いいですよ」と応えてくれたベスト・フレンドだったのでした。

日本国内で世界でも曲がりなりにも機能してきた日本国憲法と戦後民主主義にとって、今回の安保法制の施行は、あきらかに取り返しのつかない「ルビコン川を渡る」ものであることはまちがいないと思います。
まずは真っ先に自衛隊の若者が訓練ではなくほんとうに人を殺傷し、またみずからも殺されてしまう道を用意してしまいました。しかも、それを決めた大人たちがそんな危険な場所に行くこともなく、「彼らに守らせる」ために銃を撃たせる時、彼らに守らせる国家とは?国民とは誰なのでしょうか。その国に、その国民の中にわたしもふくめて実は大多数の人々は入っていないと強く感じます。
それどころか、抑止力によって保たれているとされる均衡が破れた時、真っ先に犠牲になるかもしれないのは、ほかならぬその大多数の人々の中の「誰か」で、それは先の戦争の本土決戦で犠牲になり、今も理不尽な事件にさらされ、苦難と憤りの中で日々をつなぐ沖縄のひとびとへの国と仕打ちを見ればあきらかなことではないでしょうか。
それをとるに足りない犠牲とするなら、犠牲になるかも知れないわたしたち(その先頭に自衛隊のみなさんが歩いているのでしょう)は「国のために、国民のために命をささげた」と納得して死んでいけるのでしょうか。
抑止力はとても危ういもので相手もまたそれに呼応して抑止力をさらに高め、いつまでも競争を繰り返しながら、いつか均衡がやぶられるリスクを高めるだけではないでしょうか。
わたしはどんなに甘っちょろいとか理想主義とか非難されても、抑止力を減らしていき、武力に頼らない対話、外交によって緊張をなくしていく努力こそが遠まわりに見えてもっとも近い、戦争や紛争にならない道だと思うのです。アフガニスタンで武器を持つことでしか暮らしができなかったひとびとに鍬を渡し、共に用水路を建設し、農地を再生することが平和への道とするペシャワール会の中村哲さんが「アフガニスタンでは武器を持つことで自分の身が危うくなる。丸腰ほど強いものはない」と話されるように、三度三度のごはんと安心して眠れる場所、そして信頼関係があれば、だれも争いを望まないと確信します。

そして、安保法制による武力行使がもっとも深刻な形で行使されるとすれば、日本国内でのテロが起こった時でしょう。昨年のパリ、今年のベルギーでの自爆テロがいつ日本で起こっても不思議でないと、大多数のひとびとが不安に包まれています。そして「安全な社会」を強く求める声に乗じて憲法を変え、「緊急事態条項」を盛り込もうとする動きが活発になっています。
「緊急事態条項」とは外国からの侵略やテロなどの有事や大きな自然災害などで国家の独立と安全における危機や、国民の生命・財産が脅かされる重大で切迫した事態に対応するために、内閣が法律と同じ効力を持つ政令を出し、国民の私権制限も一方的にできるというもので、憲法が権力をしばるという立憲主義から大きく逸脱する戒厳令そのものです。
まさかナチスや戦前の日本とはちがうと思っているあいだに、次の参議院選挙で改憲を主張する勢力が3分の2の議席を確保し、国民投票で過半数(投票数の過半数で、有権者数の過半数ではありません)をとれば、現実の話になってしまいます。改憲論争というとまずは9条が前面にありますが、ほんとうは「戒厳令」を盛り込むことの方がより有効で、とても心配です。

日々の暮しに追われ、大切なことがテレビ画面を次々と流れていきます。高校生から高齢者まで、部屋に閉じこもっていたひとびとがぞくぞくと街頭にあふれでるニュースを見ていると、わたしもまた何か行動を起こさなければと切実に思います。
といっても、先ほども書きましたように、わたしは普段はおしゃべりなんですが、たとえばマイクを持って自分の思いを聴く人に伝えることがまったくできません。単なるどもりではなく、考えそのものがどもっていて、自分の思いとか考えが、果たして自分のものなのかがわからなくなり、それを一生懸命さがしてしまうために言葉がつまり、出なくなってしまうようです。
それだけに、今シールズをはじめとする若い人たちが自分の思いをつぎつぎと話すのを聴いていて、とてもあこがれてしまうのです。その内容も、わたしの若いころの70年安保の時とはまったくちがっていて、世代のちがいを越えて日常とつながった同時代の空気を共有できることにびっくりします。
そして彼女たち彼たちの言葉の中に、障害や出自や性的指向など社会的少数者へのまなざしがたしかにあることなど、障害者の運動の端にいたわたしにとってとてもうれしくもまたほこらしい事でもあります。
これからもまた、わたしは彼女たち彼たちの話を聴き、共に歩いて行きたいと思うのですが、一方でさまざまな事情でその場に行けない数多くの人々の無言の思いもまた、大切にしたいと思います。

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