映画「シェイム」を観ました。痛い映画でした。

映画「シェイム」
監督: スティーブ・マックイーン
出演: マイケル・ファスベンダー(ブランドン)、キャリー・マリガン(シシー)

わたしはテレビが好きで、とくに2時間ドラマが大好きです。というより、惰性というか刹那的というか、2時間ドラマを観ながらついうとうとしてしまう時間が好きなのです。
今は週に3日働いているのですが、お休みの日は午前に一回、午後に一回、2時間ドラマの再放送を観てしまい、夜の2時間ドラマを加えると、なんと6時間もドラマを観てしまう日もあります。垂れ流しされるテレビの画像をぼんやりと観ながら、意識と無意識の間をうろうろする感覚は官能的でもあり、読書するとかこのブログの原稿を書くとか持ち帰った仕事をしようと思うのですが、ついついコタツにくるまってテレビの中のもうひとつの現実に迷い込んでしまうのでした。これぐらいのことなら問題がないのかも知れませんが、アルコールや薬物依存、さらにはセックス依存症となると大問題です。

映画「シェイム」を観ました。痛い映画でした。
ニューヨークに暮らし、仕事もスマートでソツのない独身男ブランドンは、仕事以外のすべての時間をセックスに注ぎ込んでいました。行きずりの女性やプロの女性との一夜限りの情事、シャワールームやオフィスのトイレでのマスタベーション、ネットでのポルノ動画の収集……。ありとあらゆる性欲を処理する行為によって日々をやり過ごしていました。
そんなブランドンのもとにある日、失恋して男に捨てられた妹シシーが転がりこんできました。愛を渇望し、激情の塊となって生きるシシーと、人との心の繋がりを一切求めず、生きてきたブランドン。恋愛依存症の妹とセックス依存症の兄、このふたりに何があったのかを映画は教えてくれません。

セックスや性的な物事について人に話したり、文章にしたりすることはとても恥ずかしいです。若いころ、「性の解放」や「芸術か猥褻か」というようなことから、ビニ本、ピンク映画まで、セックスにまつわるいろいろな情報にいつもどきどきしていたことも事実ですが、わたし自身はセックスや性的な官能と出会うこともない、悶々とした青春の日々を送っていました。
そんなわたしにもその時がやってきたのですが、世の中にセックスの情報が氾濫し、欲望ではちきれそうなのに、いざとなるとどうしていいかまったくわからず、立ちつくしてしまいました。それはセックスの仕方が分からないだけではありませんでした。距離が5メートルの人間関係と1メートルの人間関係がまったくちがうように、身体と身体が重なり合う0メートルの人間関係をどうつくったらいいのかがわからなかったのでした。
セックスはもっとも直接的なコミュニケーションで、他の関係なら知りえない情報や隠された感情を分かり合い、分かち合うことでより深い人間関係をつくることができるのかもしれません。しかしながら、それがゆえにどうしてもわかりえない何かが残ってしまうディスコミュニケーションを知ってしまう孤独で残酷な行為でもあるのです。
けれどもブラントンの場合、セックスで孤独を埋めるというよりは、孤独を必要としないモノローグの宇宙を支えるツールとしてセックスがあるようなのです。刹那的で、人生のさまざまな物事を組み立てなくてもよい時間、まるでジクゾーパズルのひとつのピースのように、何か特別な場所や時間に立たなくてもいい解放感を得るために繰り返されるブランドンのセックス依存は、わたしの2時間ドラマ依存症とかけ離れたものではなく、実際どうちがうのかわからなくなります。
妹のシシーの場合はどうでしょう。彼女はとても魅力的で官能的な女性なのですが、愛に焦がれ、それがかなわずリストカットを繰り返してきた痛々しい傷跡を腕に残しています。彼女にとってセックスは男に愛されたいために、孤独を埋めるためにあります。ブランドンが忌み嫌う他者との直接的で深い関係を求め、それが叶わない深い絶望の河にただようことしかできないシシーの悲しみもまた、この映画は映し出しています。
どうしようもないシシーとのぶつかり合いの中で、引き離そうとしても引き離せない感情がブランドンに生まれます。それは妹への愛情なのか、あるいはひとりの女性への愛情なのかはわかりませんが、どちらにしてもひとと関係を持つわずらわしさに巻き込まれていくことで、苛立ちながらもブランドンの心に変化が起こります。
感情を伴わず、ただただマシーンのように性欲を処理する日々を送るブランドンが職場の女性とデートし、行為に挑んでみるとできなくなるというのはパターン化されていて、「やっぱり」と思ってしまいます。しかしながら一方でひとと関係を持ち、育てて行く「わずらわしさ」を引き受けようとしておどおどするブランドンの姿に、悲しみをともなうけれど再生や救済へのかすかな道筋が見えてきます。

わたしはこの兄妹の過去がどうだったのかにはあまり関心がありません。それよりも、結果的にシシーはブランドンにとって天使だったのかも知れません。シシーが来なければブランドンはハンサムでお金もそこそこあり、広くておしゃれな家を持ち、毎日を性の快楽で埋め尽くす暮らしを続けられたかもしれません。しかしながら、シシーが来なければ他人との人間関係の「わずらわしさ」に悩まされながらも、他人に必要とされたり、他人を必要とする、人間らしい人生の入り口に立つことはなかったでしょう。
わたしはこの映画を「痛い映画」と書きましたが、最近あまり映画を見なくなった中で、「ノルウェーの森」以来の痛さを感じました。「ノルウェーの森」は村上春樹ファンにも村上春樹を嫌いなひとにも評判が良くない映画でしたが、わたしはこの映画の痛さが好きでした。
古くはルイ・マル監督の「ダメージ」も痛い映画でした。この映画では息子の恋人を愛してしまう政治家が彼女との愛に溺れ、激しいセックスをくりかえします。ある日その現場を息子が観てしまい、そのまま飛び降り自殺してしまいます。その事件で彼は失脚します。ホームレスとなった彼が、朝にごみ収集車に投げられたごみをあさる痛々しい姿が印象的でした。
それにくらべて映画「シェイム」は「ノルウェーの森」の中年版といったらいいのか、遅すぎた青春映画とも言えそうです。青春は時速300キロで走り抜け、心に刺さった矢はその速度で振り落とされて行きますが、中高年ともなると刺さった矢も抜けず、傷はいつまでもチクチクと残ってしまいます。
映画の後半になると、ブランドンにとって快楽の道具だったセックスがまるで拷問になっていくようで、彼の顔は苦痛に満ち、ゆがんでいます。
映画は救いがないかのように終わりますが、もう少し映画が続けば、わたしたちは恋にまどい、愛にふるえ、他人と心のひだを重ねるブランドンを発見したかもしれません。
もっとも青春映画のハッピーエンドとちがい、ブランドンの場合は果たしてどうなのでしょう。性的依存症の彼は魅力にあふれていて、お金を伴わなくても美しい女性をひきつけ、おそらく精力も絶リンだったことでしょうが、愛するひととのセックスは不能のままであることはじゅうぶん考えられますし、「希望は人間がかかる最後の病気」かも知れないのですから…。
そして、ひとがひとであることそのものが恥ずかしいこと(シェイム)で、格好悪くてもそれはもしかするとうれしいことなのかも知れないと、自分勝手にこの映画のタイトル「シェイム」に納得しながら映画館を出ました。

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