島津亜矢と「お月さん今晩は」と、「歴史は二度くりかえす」

昨日19日、NHK総合で夜8時からの「NHK歌謡コンサート」に島津亜矢が出演し、「お月さん今晩わ(は)」を歌いました。この歌は藤島桓夫の1957年のヒット曲で遠藤実の作曲家デビュー曲でもあります。1950年代は戦後もっとも良質の歌謡曲が数多く世に出たころでもあります。美空ひばりが歌謡曲の名曲を次々とヒットさせ、春日八郎、三橋美智也、島倉千代子、50年代後半には石原裕次郎、フランク永井、三波春夫、村田英雄など、昭和歌謡のレジェンドたちが活躍した時代でした。その一方ですでにロカビリーブームやザ・ピーナッツの登場など、ポップスも歌謡曲の流れの中で受け入れられた、古き良き時代でもあります。
すでに何度もこのブログで書いてきましたが、かつてNHKのBS放送「BS日本のうた」などでカバーの女王といわれた島津亜矢(この称号は喜んでいいのか悲しむべきなのかは別にして)の数々の名唱の中でも、この時代の歌謡曲の歌唱力は群を抜いていて、たとえば三橋美智也の「哀愁列車」や「赤い夕陽の故郷」、村田英雄の「無法松の一生」、三波春夫の「大利根無情」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」など、数え上げたらきりがないほどです。わたしはその中でも横井弘作詞の三橋美智也の歌がつよく印象に残っています。というのも、シングルマザーの母が焼き芋屋からはじめた大衆食堂を一人で切り盛りしながら母と兄とわたしが身を寄せ合い、心を縮ませてその日その日を暮らしていた頃、若いころは三味線が好きだった母がただひとつ楽しみにしていたのが、ラジオから聞こえる三橋美智也の歌だったからです。ですから、島津亜矢が三橋美智也の歌を歌うと60年も前の風景が一気によみがえり、涙なくしてはおられないのです。

今回はじめて歌った「お月さん今晩わ(は)」も、少し力みがあったかも知れないですが、およそ60年も前の歌で、すでにこの歌の原風景は日本社会からなくなってしまったともいえるのに、歌そのものが持つ記憶を愛おしくひも解くように切々と彼女が歌い出すと、聴く者の心の中でその原風景が広がって行くようでした。もちろん、若いひとたちにはもともと高度経済成長からバブルをへて「失われた20年」から現代へと壮大で激動の歴史が人々を翻弄し、置き去りにしてきたかを知る由もありません。しかしながら、歌の記憶は時代と世代をこえて思わぬところで思わぬ時に思わぬ人々の心の中で「もうひとつの歴史」をよみがえらせることもあるはずだと、島津亜矢の1950年代の歌を聴くと強く感じます。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という名言をもじって言えば「歴史は繰り返す。一度目は事実として、二度目はフィクションとして」と言うことなのかもしれません。そして歌はフィクション(物語)から事実ではなく真実を発掘するのだと…。
さきほど力みがあると書いたのは、個人的にはたとえば紅白の「帰らんちゃよか」のような奥行きのある歌唱がいいのかなと思ったからですが、思い直してみると「哀愁列車」にしても「イヨマンテの夜」にしても、この頃の歌は都会と地方の距離がどんどん遠くなっていく中で、きっと声を限りに張り上げることでしか、別れてしまった好きなひとに気持ちが届かなかった時代だったのでしょう。 携帯電話やスマートフォンはおろか、固定電話の普及率もそれほど高くなく、もっぱら手紙のやり取りがコミュニケーションの手段だったに違いなかったのですから。もっとも、その時代のほうが今よりもゆたかなコミュニケーションがあったのかも知れません。よく慣用で「行間の想い」と書きますが、その時代は切実に余白や行間に想いをしのばせ、受け取った手紙からそのあふれる想いを読み取ることで親子の愛や恋人の愛や時には裏切りさえも感じ取っていたことでしょう。
最近の島津亜矢の歌唱はますます変化していて、というのもここ数年の試行錯誤から抜け出し、より奥行きと陰影のある歌唱力と、なによりも歌の誕生の地まで一気にわたしたちを連れて行ってくれる「歌を読む力」を磨き、彼女の持ち前の潔さとひたむきさを持って堂々と悠々と歌うようになってきたように思います。たとえば若い時の何の恐れもない未曾有の声量から、今は囁くように湧き出る声から歌の背景を一気に変える限りない声量まで、ひとつの物語を綴るように歌ってくれるようになりました。今回の歌唱では小さな音の粒が転がって行くような細やかなこぶしがとても快く感じました。
この歌を作曲した遠藤実は昭和を代表する作曲家ですが、この歌が作曲家としてのデビューだそうです。遠藤実が作曲家として生計がたつようになるまで、想像を絶する赤貧と、次々とおしよせる過酷な運命にさいなまれ、苦難の人生だったことはよく知られています。
1932年に東京で生まれ、第二次世界大戦時に疎開先の新潟で少年期を過ごします。越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えたとされています。義務教育を終え日東紡の工員となるも、音楽が好きで工場にやってきた楽団に入るのですが3ヶ月で解散となり、それからはさまざまな仕事で食いつなぎ、1949年、17歳の時に上京。様々な職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になります。
演歌師をしながら独学で作曲の勉強をし、1957年に「お月さん今晩わ」のヒットを機に本格的な作曲活動に入ります。それ以後は「高校三年生」をはじめ、「こまっちゃうナ」、「北国の春」などおよそ5000曲を作曲したといわれています。
東京に出てきて最初は歌手になろうとしたけれどだれも相手にしてくれず、途方に暮れて見上げた月が、東京に出てくる前に祭囃子が聞こえる砂浜で見たなつかしい故郷の月に思えて「今晩は」って言ったのがきっかけで、デビュー曲となった「お月さん今晩わ」が生まれたのでした。遠藤実いわく「歌の神様がお前にはお金はやれないけれど、お前の原体験を歌にする才能をあげる」ということらしく、この歌に限らず数々の悲運と貧困と切り離せない疎開先の新潟の風景や体験がメロディーとともにやってきて、数々の名曲が生まれたのだそうです。
この頃には連れ合いさんと結婚していて、友人の家に間借りしていた部屋は雨漏りがひどく、傘をさして寝ていたという話もあるほどの赤貧の中で、この曲は生まれたのでした。
この話を聞いて、わたしは遠藤実の歌の底に流れている匂いのようなものが何なのか、わかったような気がしました。どの歌にもとても悲惨な風景とないまぜにどこか明るく、明日への希望が隠れているのです。それが「北国の春」をアジアで大ヒットさせたのでしょう。
そして、島津亜矢はもっとも柔らかいその歌の原風景を見事によみがえらせてくれたのでした。
今回の番組のテーマは「女性の生きざま」ということでしたが、番組冒頭に仲間由紀恵がVTRで出演し、森光子が生前愛した曲を森のエピソードとともに紹介し、島津亜矢が歌うという演出は、目立たない中にも島津亜矢への最高のオマージュだったと思います。
というのも、仲間由紀恵が引き継いだ「放浪記」を生涯のライフワークとした森光子の壮絶な役者人生を「女性の生きざま」として冒頭に持ってきた時に、彼女が愛した「お月さん今晩わ」をほんとうに歌える歌手として、島津亜矢に出演を依頼したはずです。そのことはこの番組の制作チームがいかに島津亜矢を高く評価しているのかを証明していて、また島津亜矢はその要求に見事に応えてみせたのでしょう。
そう考えると、前回に書いた新しい音楽番組「歌コン」でも島津亜矢の活躍の場が広がるのかもしれません。また今回の番組の出演者はポップス分野のベテラン歌手も多く、新しい番組ではミュージックジャパンのJポップの若い歌手たちの出番はあまりなく、むしろミュージックステーションにはあまり出演しないベテランのポップス歌手の出演が増えるのかも知れません。それはそれでポップスも歌謡曲も懐メロの様相を見せるのかと心配ではあります。

藤島桓夫「月の法善寺横町」、「お月さん今晩は」
子どもの頃の記憶では甲高い声だという印象だけでしたが、この映像を観ると藤島桓夫は遠藤実の「匂い」をきっちりと表現していて、さすがにうまいなと思いました。
田端義夫「お月さん今晩は」
田端義夫の場合はお月さんを眺める登場人物の心情がより切実な感じがします。
春日八郎「お月さん今晩は」
春日八郎の場合は「別れの一本杉」と同じように、都会に出てきた者と地方に残された者の両方の心情を物語る歌になっています。

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