忌野清志郎と島津亜矢

忌野清志郎がこの世を去って6年になりました。
毎年、彼の命日にあたる5月2日にトリビュートライブ「ロックンロール・ショー」が行われるとともに、NHKを中心にテレビで特集番組が組まれています。今年はNHK地上総合で今年ライブに参加したミュージシャンが出演し、2008年に最後のテレビ出演となった「SONGS」の映像を交えたトーク番組の他、NHKBSプレミアムで、「スローバラード」や「ヒッピーに捧ぐ」「やさしさ」などが収録されているRCサクセションの3枚目のアルバム「シングルマン」の録音秘話を特集した番組などが放送されました。
わたしはRCサクセションと忌野清志郎のファンだったとはとても言えず、彼の音楽をよく知らないまま彼の死を受け入れざるをえなかった人間ですが、それでも数々のヒット曲をフルコーラスではなくとも口ずさめるぐらいですから、彼の音楽とその生き方がいかにたくさんの人びとを魅了し、いまも魅了し続けているかがわかります。
とくに、「ジャックス」や「はっぴーえんど」などの先達がいたものの、日本語の歌詞で歌うロック音楽が社会現象にまでなったはじめてのロック歌手と言っていい忌野清志郎の存在は、Jポップとは違う日本のロックの源泉の一つでもありました。
わたしに忌野清志郎を教えてくれたのは豊能障害者労働センターのIさんでした。彼は1994年に高校を中退して豊能障害者労働センターの一員となり、今は豊能障害者労働センターや被災障害者支援「ゆめ風基金」の活動を担ってくれている人です。
実は忌野清志郎だけでなく、アメリカのブルースやR&Bやエルビス・プレスリーなど海外のミュージシャンから、ボ・ガンボスなど日本のロックまで、わたしの子どもよりも若い彼から音楽そのものを教えてもらったといっても過言ではないのです。ほんとうはそれほど熱烈な音楽ファンではなかったわたしは、自分の若い頃に親しんでいて当たり前のロックやR&Bを、50歳ぐらいになってはじめてIさんやわたしの息子に教えてもらったのでした。そう思うと、わたしは豊能障害者労働センターで活動したおかげで、Iさんにかぎらず20も30も年齢がはなれた若いひとたちから実にたくさんのことを学ぶことができ、とても幸運でした。
「歌謡曲」と並走するような桑田敬祐の楽曲も魅力がありますが、フォークからロックへとその表現の可能性を大きく広げた忌野清志郎の楽曲は、都会育ちでありながらアメリカの麦畑が広がる大地から生まれたブルースにたどり着くポピュラー音楽のルーツを感じさせてくれます。日本の民謡や歌謡曲とはあまり縁がなかった印象がありますが、古くは坂本冬美、細野晴臣とのユニット「HIS」が話題になりました。
彼の曲を聴くと、彼がいかに歌詞にこだわってきたかが良くわかります。歌をつくる時に歌詞から先につくるのか曲から先につくるのかが時々話題になりますが、今のJポップなどは曲から先に生まれるのが多いように感じます。演歌や歌謡曲の場合は作詞と作曲が別々の専門家がつくり、それを歌手が歌うという分業が今も生きていますが、シンガー・ソングライターやバンドによる歌づくりの場合は言葉とメロディが一緒にできるケースが多いのでしょう。忌野清志郎の場合がどうだったのか、素人のわたしにはよくわかりませんが、歌詞そのものや歌詞にするためのメモがぎっしり詰まったノートが残されていることから、彼の言葉はいつもメロディーを探していたのかも知れません。そのせいか、曲にはめたような歌詞はほとんどなく、逆に彼の歌詞集を読んでも歌詞だけが詩として独立した歌詞もなく、彼の詩はメロディーとともに歌われる時、はじめて詩になるのだと思います。そういう意味では永六輔の歌詞も桑田敬祐の歌詞も曲があってこそで、それが本来の歌の在り方なのかもしれません。
その才能が日本語の歌詞をロックにしたのだと思う一方で、彼による洋楽の訳詩は飛び抜けてすばらしく、反原発のメッセージが発売元の東芝EMIの親会社の東芝から圧力で発売中止になった「カバーズ」に収められた洋楽の名曲が見事に日本の歌としてよみがえっています。
音楽的なテクニックでは今の日本の若者たちがビートルズをはるかに越えていたとしても、ロックが本当はとても瑞々しいラブソングであることからはどんどん遠ざかり、一方でJポップスというジャンルに押し込められたラブソングは「の、ようなもの」でしかないイージーリスニングとなって垂れ流されるばかりの日本の音楽シーンは、忌野清志郎がなくなって6年の間にますます絶望的とも思える状況になっているのではないかと思います。
日本の叙情詩人のひとりといえる忌野清志郎の歌詞とメロディーがそのままでロックやパンクになった時、派手な衣装で飛び跳ね、わたしたちを挑発しつづけた彼のパフォーマンスは気取った洋楽から大衆的な日本の音楽へと変身しました。
ちなみに、わたしは長らく美空ひばりがとても苦手でしたが、歌手生活35周年記念の武道館コンサートや伝説となった1988年の東京ドーム公演での、いのちの最後の光をまとった派手すぎる衣装と鬼気迫るパフォーマンスを観た時、演歌・歌謡曲のジャンルに押し込められてきた美空ひばりの本来の姿の一端を観た気がして、それからやっと戦後大衆民主主義の象徴といえる昭和のディーバとしてそのすばらしい歌唱力と表現力に親しめるようになりました。
美空ひばり亡きあと、その大衆性と音楽的冒険に満ちたアーティストは誰かと思った時、あらゆるジャンルと関係なく、忌野清志郎だったのではないかとわたしは思っています。

特集番組を観ながらそんなことを思っていたら、島津亜矢について書かないわけにはいかないでしょう。またまた忌野清志郎をはじめとするロック・ミュージック、Jポップスのファンからも、島津亜矢をはじめとする演歌・歌謡曲ファンからもひんしゅくを買うことを承知で言えば、美空ひばり、忌野清志郎につづく「音楽のルーツ」をたどる大衆芸能の旗手は島津亜矢しかいないでしょう。
もちろん、彼女より優れた歌唱力を持つクラシックやロック、ポップスの歌手がいるかもしれません。しかしながら、たとえば瓦礫が転がる荒地の上で、海の向こうにつながる地下水道の中で、崩れた山のたおれた神社の鳥居の前で、自分の孤独を持て余す青春の帳の中で、マイクもスピーカーも音響も伴奏もないところから、日本の大衆音楽のルーツといわれる中山晋平、野口雨情の浜辺や岸壁から、さらには海を越えてはるばる奴隷としてアメリカ大陸や南米大陸に連行されたひとびとが、人間たるあらゆる希望も夢も命までも奪われた麦畑のはずれの森の広場から、鳥の鳴き声や水の流れを真似て人間がはじめて歌を歌い始めたアフリカ大陸の果てから、振袖をひるがえしこうべを垂れて、歌の荒野の果ての荒野、そのまた果ての荒野を見つめながら渾身の歌を歌い始める島津亜矢は、美空ひばりはもとより、ジャンルがかけ離れているかのように見える忌野清志郎から見えないバトンを受け取った数少ない歌手のひとりだと信じてやみません。
彼らにあって彼女にないものはただひとつ、時代とのマッチングであるといえるのではないでしょうか。たしかに、遅すぎた演歌歌手と評される島津亜矢ですが、わたしは反対に早過ぎるスーパースターだと思います。時代が彼女に追いつくまで、まだまだ時を必要とするのかもしれませんが、いつか彼女の音楽への無垢な心と自らの才能におぼれない普段の努力、自分を育ててくれた恩師への尊敬、そしてさまざまな誘惑にも自分の信じた道を貫くいい意味の頑固さが報われることを願わずにはいられません。
ここ数年で歌をよみとる力が増した彼女ですから、今度制作される「SINGER3」にはもっと大きな冒険をしてほしいと思います。その中に、忌野清志郎の歌も入っていますように…。

RC SUCCESSSION「スローバラード」 ( RHAPSODY 4/6)

SMI 忌野清志郎 坂本冬美「デイドリームビリーバー」

RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ」

忌野清志郎 佐野元春「トランジスタ・ラジオ」

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