島津亜矢の「恋」と松山千春

島津亜矢のファンサイト「亜矢姫倶楽部写真ギャラリー」で今大評判の「亜矢ちゃんでツイッター」を見ていたら、松山千春がパーソナリティをしているラジオ番組で、島津亜矢を語っていることを知りました。すべてを聴いたわけではないのですが、島津亜矢の歌唱力と声量をほめたり、いろいろな発言をしたようです。それを受けてリスナーから島津亜矢が「SINGER」で彼の「恋」をカバーしていると言った後、「千春さんのカバーをしている歌手で上手だなと思う人はいないのですが、千春さん自身は千春さんの歌をカバーしているひとで上手だなと思う人はいますか?」と質問してきました。
それに対して、松山千春は「AKBだったらどうでもいいのよ。ただ、歌唱力のある布施明さんとか徳永英明とかなら、上手かな?下手かな?という判断できる可能性はあるかもしれない」とはっきりした答えは言わず、「今日の一曲目はおれが今、演歌とかジャンルを問わず上手だなと思っている島津亜矢」と紹介し、新曲「独楽」をかけた後、よほど咽喉が強くないとあの声量は出せない、それだけでも尊敬できるといいました。
毒舌と歌とがかけ離れているという意味では、亡くなったやしきたかじんと共通しているかも知れない松山千春ですが、彼は何年か前の正月のトーク番組でも前年の石川さゆりの「天城越え」をべたほめしたりしていて、とくに歌に関しては「良いものは良い」と高く評価するひとです。歌謡曲や演歌にもアンテナを張っていて、かつて同郷の北島三郎と共演し、「風雪ながれ旅」を歌ったこともあります。
このラジオ番組で自分のカバーについてはっきり答えていない彼ですが、その後の島津亜矢の評価を聞くだけで、「歌手・島津亜矢」をしっかりと彼の心にとどめたのは間違いないのではないでしょうか。
北海道出身の松山千春は1977年に「旅立ち」でデビューした後、翌年の「季節の中で」が大ヒットした後もテレビには出ない人でしたが、はじめて当時の人気番組「ザ・ベストテン」にテレビ出演した時に話したことをよくおぼえています。
それはコンサートが終わった後の舞台でした。

みんなにわかってもらおうと思って、今日はこうやって出てきたんだけどね。
オレ歌うってとっても好きなわけ。この会場、今は誰もいないけど、さっきまでみんないて、オレが歌ってみんな拍手してくれて、時には大声で笑ったりなんかして、そんなコンサートってのがオレは大好きなわけ。
みんなが目の前にいて、オレが歌う、そんな中でオレの歌がはじめて生きるんじゃないかなって、はじめてオレが心の中を歌えるんじゃないかなって、思うわけ。だからテレビに出ないで、一箇所でも多くみんなの所に行って、みんなの前でオレは歌いたいわけ。それをみんなに解ってもらいたかった。
この番組、とってもいい番組だな、オレ面白いし、毎週見てるよ。そして、今度オレが、みんなのお陰で、一位だって。嬉しいよ、本当ありがとう。
けどね、悪いけど、こうやってオレがテレビに出るの、これが最初で最後だって思って欲しい。オレやっぱりさ、カメラの前で歌うのって、寂しいよ。とっても辛いよ。
だからこれが最後になるって、思って欲しい。ごめんな。けどこれが、オレのやり方なんだ。

松山千春のラジオの発言を聞いていて、わたしは島津亜矢もまた全国津々浦々の会館をまわり、彼女を待ちつづけるひとびとの前で歌を歌い続けていることを知っていて、ある種の同志的な感覚すら持ったのではないかと思います。歌は確かに、歌う人のためだけではもちろんなく、切実に歌を聴く人々のためでもあると信じる松山千春だからこそ、単に演歌でもポップスでも器用に歌うだけの歌手ではない、島津亜矢のもっとも深くもっとも無垢なたましいを見抜いたのだと思います。

ところで、島津亜矢の「恋」ですが、松山千春の「恋」を聴いていたわたしにとって、他のカバー曲以上の衝撃を受けたことを白状しなければなりません。ここではオリジナルかカバーかのレベルの問題ではなく、むしろ松山千春の歌作りの根幹にかかわることだと思います。
この歌は男と別れようと思っても別れられない女が、今度こそはほんとうに別れることを決意し、男がおそらく酒におぼれている間に部屋を出ていこうとする歌です。女は今でも男を愛しているのかも知れませんが、2人の関係はもうどうすることもできないところまで来ていると女の方だけが感じていて、男の方はまったく気づいていないようなのです。
「お前は俺とは離れられない」という男のおごりから抜け出せなかった女が、愛想を尽かし自立していく時に、それでもまだ洗濯物のことや部屋の鍵のことなどをそこにいない男に呼びかけるようにつぶやく姿は、せつなくて悲しくて涙があふれます。
たとえば阿久悠の「ジョニーへの伝言」ではもう少し女の自立と新しい未来も用意されているのですが、「恋」の場合は自立の先のことよりも洗濯ものが気になるようなのです。
わたしは実はこの歌は、どこまでも男が想像する女ごころで、従来の「女を捨てる男」と「男にすがる女」と枠組自体は変わっていないように思うのです。もちろん、松山千春はあの高くてやわらかくてどこまでも甘い歌声とともに、男と別れることを決意し、部屋を出ていく女の心情を見事にとらえていることはまちがいないでしょう。
しかしながら、島津亜矢が歌うとこの歌は自立する女の心情へとシフトするように思うのです。それはきっと、歌を歌う松山千春がどこまでも男であるように、歌をよむ島津亜矢はどこまでも女である以上でも以下でもないのだと思います。
ただ、松山千春の「恋」の女が「それでも恋は恋」とつぶやき、もしかするとぎりぎりのところで、かぎを下駄箱の下に置こうする時に別れることをやめるかも知れないほど、未練がふつふつとわいてきそうなのに、島津亜矢の「恋」は涙を振り払い、それでも部屋を出て行き、歩きなれた道を新しい未来に向かって、一歩踏み出していく女の姿が浮かんできます。
言い方を変えれば、この歌の歌い手としての松山千春がどうしても男であるしかなかったのにくらべて、この歌の作り手としての松山千春の歌心を読む島津亜矢は女として、この歌を本来の誕生の場所へと戻したのだと言えば、松山千春と松山千春ファンに怒られるでしょうか。
案外、松山千春は「おれが今、演歌とかジャンルを問わず上手だなと思っている」といったように、島津亜矢の「恋」を高く評価しているのではないでしょうか。

島津亜矢「恋」

松山千春「恋」

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