日本固有のソウルミュージック 美空ひばりと竹中労、島津亜矢

ずっと以前にも書いたことがあるのですが、村上春樹がアメリカの友人に勧められて美空ひばりのジャズのレコードを聴いたエピソードを書いています。

以前、アメリカ人の家で美空ひばりの歌うジャズ・スタンダード曲集を、ブラインドフォールド(誰が歌っているのかわからないようにすること)で聴かされたことがあった、「誰だかわからないけど、なかなか腰の据わったうまい歌手だな」とは思ったのだが、何曲か聴いていると、その「隠れこぶし」がだんだん耳についてきて、最終的にはやはりいくぶん辟易させられることになった。ジャズ・スタンダードをきっちりと自分なりに歌いこなせてしまう、美空ひばりという歌い手の実力には感心させられたけど、それは「ジャズ」とちょっと違った次元で成立した音楽だった。もちろん、そういう音楽の存在意味や価値を否定しているわけではまったくない。
(村上春樹「意味がなければスイングはない」)

わたしは村上春樹ファンですが、このエピソードを読んだ時、彼が耳についたという「隠れこぶし」にこそ、美空ひばりのジャズの神髄があるように思いました。
美空ひばりのジャズは当初はパティ・ページなどの白人のジャズをお手本にしていたようですが、竹中労は日本人固有の音楽の記憶を体現し、庶民によるもうひとつの戦後民主主義を歌謡曲で表現する美空ひばりは、黒人のブルースやソウル、ゴスペルとつながっていると考えました。

私はひばりのジャズのLPを聴いているうちに「もし彼女に黒人ジャズをうたわせたらと、ふと思ったのである。「マヘリア・ジャクソン 神と愛の讃歌」を彼女に贈ったのは、ひばりが群馬、長野の地方巡業に出発する2週間前であった。そして福岡音協のリサイタルで歌う、ひばりの「ダニーボーイ」をきいて感嘆した。
それから、せっせとジャズのレコードを美空ひばりにつぎこんだ。週刊誌や月刊誌にひばりの記事を書いた原稿料は、そっくりレコードに化けていた。(竹中労「美空ひばり」)

実際、最後の方のジャズのアルバムには竹中労の思い入れが表現されているようで、楽譜も英語も読めないのに、絶対音感というのでしょうか、レコードを聴くだけで音程もリズムも英語も完璧で、アメリカ人でもアメリカの歌手が歌っていると勘違いするほどでした。
それでも、どれだけその音楽を理解し歌いこなしても残るざらざらごつごつしたフィーリングというべきか、村上春樹には受け入れられなかった美空ひばりの独特の感性こそが、海を渡りアメリカ大陸の音楽のルーツとつながっていく…、もしかすると音楽でしか実現しない奇跡がおきたのだと言えるかもしれません。
竹中労は美空ひばりとの出会いを次のように語っています。

1952年5月30日、淀橋警察署襲撃事件の首謀者と目されて現場で逮捕、2か月後に釈放され、あてもなく日盛りを歩いていった。
そこへ、歌が聞こえてきたのだ。歌は心に落ちてきた。私は急に切なくなった、涙がこぼれてとまらなかった。
リンゴの花びらが風に、散ったよな…。(「リンゴ追分」)
パチンコ屋の店先であった。美空ひばりとの出会いだった。意識しなかったが、その時アナキズム、「窮民革命」へのわたしの回心は確実におとずれていたのだ。
(竹中労「美空ひばり」)

さて、長々と美空ひばりについて書いたのは、島津亜矢もまた、時代をこえてとてもよく似た運命を背負っていると思うからです。美空ひばりは長い間蔑まれてきた大衆音楽こそが「芸術」だと自負し、最後まで戦後のがれきの上におかれたリンゴ箱がステージだったことを忘れませんでした。戦後の日本社会とともに歩いてきた時代の巫女として稀有の才能を開花させた一方で、それがゆえにアメリカの支配のもとで始まった戦後民主主義の「明るい未来」の底でうごめく暗闇を一身に引き受けた彼女の歌は、どこか悲しく切なく、時には光るナイフで時代を切り裂くテロリズムを秘めていました。
島津亜矢はそれほど時代にほんろうされる歌手人生ではなかったと思いますが、美空ひばりが最後に閉じ込められた演歌の重い扉の中から出発し、大きな芸能事務所の後ろ盾もなくたったひとりでその重い扉を開いて音楽の冒険に身を委ねました。
わたしは彼女の歌手としての稀有の才能がショービジネスの世界では評価されるよりも疎まれてきたのではないかと思います。デビューした当時に夢見たスター街道は厳しい現実の闇にかき消され、それでも彼女の歌うことへの情熱と特別な才能を受け止める限られた人たちによって、歌手・島津亜矢は独自の道を切り開いてきたのでしょう。
そんな彼女にもここ数年大きな波がやってきて、「歌怪獣」という異名のもと一時はテレビ番組を席巻しそうな勢いをえました。わたしはこのブームは5年ぐらいで、その間に違う展開があればいいと思っていましたが、トップの人気を誇る演歌歌手がポップスを歌いはじめた時点で島津亜矢のポップスの冒険はいったん終わったと思っています。
というか、もともと彼女自身何も変わったわけではなく粛々とジャンルレスに歌を歌い続けてきただけで、社会の写し鏡としての音楽シーンが一瞬彼女を際立たせただけだったのかもしれません。
わたしは島津亜矢に、Jポップでもなく、また演歌でもない、日本独自のジャズ、ソウルミュージックやゴスペル、リズム&ブルース、民謡、歌謡など日本の大衆音楽の再来へと冒険してもらいたいと思います。そして、演歌の重荷から解放された島津亜矢が美空ひばりのやり残したであろう音楽的冒険を引き継いでほしいと切に願っています。
「さくらの唄」は、異彩をはなつ日本のソウルミュージックです。この歌には演歌や歌謡曲やJポップが得意とする「定型」がありません。なかにし礼個人の人生への深い絶望と孤独、生からこぼれ落ちる時の刻みと心臓の早鐘。自分の悲しみと世界の悲しみが重なり合い、もう運命の歯車が死への誘惑へとたどり着いた果てに、やがて少しずつ心が温かく静まり、もう一度生きてみようと醒めた眠りから立ち上がる青春の光…。
日本語で語り、日本語で祈る日本のソウルがたしかにある。「さくらの唄」はそんな歌で、島津亜矢はこの歌を本来の歌詠み人として真正面に受け止め、その魂を見事に救い上げてくれました。そして、わたしはあらためて、彼女が時代のどんな大きな悲しみも希望に変える歌手のひとりであることを教えてらいました。

もしもぼくが死んだら ともだちに
ひきょうなやつと 笑われるだろう
笑われるだろう

美空ひばり「さくらの唄」

島津亜矢「恋人よ」

島津亜矢「冬の蛍」

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