ソーシャルディスタンスと母の手のぬくもり。島津亜矢の「かあさんの歌」

おててつないで 野道をゆけば
みんなかわいい 小鳥になって
歌をうたえば くつが鳴る
晴れたみ空に くつが鳴る

1997年夏、わたしは母の手をにぎりながら、何十年ぶりかにこの歌をくちずさみました。病院の窓からは、山にへばりついた家々の灯がにじんでゆれていました。
その半年前に脳梗塞で入院し、やっと退院し、車いす生活になれようとしていた矢先のことでした。退院後数日で母はまた救急車で運ばれ、同じ病院に入院する羽目になりました。86才という年齢から言っても今度は何が起こるかわからないと医者に言われ、数日間病院で寝泊まりしました。
頻繁に呼吸が止まり、わたしは思わず彼女の動かない手をにぎりしめました。
つないだ手と手のすき間から、「ずきん、ずきん」と脈が伝わってきます。心臓へとたどりつく血の鉄道は体の地平をかけめぐり、皮膚をつきやぶるような熱いリズムを刻んでいました。消えそうになったとたん、老いた胸をふくらませたかと思うと、とつぜんからだ中の長いトンネルをくぐりぬけ、鼻から口から風が吹く。日常とはちがう思いつめた静けさの中で、長い間忘れていた「いのち」の歌がきこえてきました。
女ひとりで一膳めし屋を切り盛りし、必死で生きてきた母と兄とわたしの、いまはもうなくなってしまった子ども時代の風景。それぞれの人生はそれぞれであるしかないように、ひとは自分で幸せになるしかない。そう思って高校卒業してすぐ、ひきとめる母をふりきり家を出ました。やがて兄もわたしも大人になり、それぞれの「家」を持った時、「2人の子どもを育てあげた」ことの他に、どんな時とどんな風景とどんな幸せが彼女の人生にあったのか、わたしには知るよしもありませんでした。
人間は歌うことをおぼえて人間になったというひとがいます。
人間は前足が手にかわった時から歴史をつくったというひとがいます。
もし、そうならば、人間は手をつなぐことで愛することをおぼえ、音楽を発明したのかも知れません。そしていのちの彼方とこちらをつなぐ手と手が、歴史の誕生と歌の誕生がひとつのものだったことを教えてくれます。
その歌は演歌でもロックでもジャズでもクラシックでもない、手をつなげば小鳥になり、くつが鳴る。にじんだ夜空にくつが鳴る。
長い間、こんなせつない歌を歌い、聴いたことがありませんでした。
その日の朝早く、ひときわ強く雨が降り、雷がとどろきました。付き添いのベッドで眠ってしまったわたしが目を覚ますと、母はわたしのほうに顔を向けていました。口からは、いつもとちがう「ぶるぶる」という音とともに、つばがあふれ出ていました。おかしいと思いつつ一時間はたったでしょうか。突然またつばがあふれ、顔の血の気がすっとなくなりました。わたしの前から、母のいのちは遠くへ旅立っていきました。
8月1日には86才の誕生日を迎えるはずの1997年7月13日、日曜日でした。病室の窓から何度も見た箕面の山々は降りしきる雨にぬれてぼんやりとくもり、その下に広がる街並みは、一日の生活をはじめようとしていました。

新型コロナウィルス感染防止のため、外出自粛とともに3密を避けることを求められた時、なぜかわたしは母と手をつないで口ずさんだこの歌を思い出しました。あれから23年、働きつづけたその手のいとおしいぬくもりが切ない別れとともによみがえりました。
ひとは一人では生きられず、そしてパンのみでは生きられないとしたら、どんなに危ないことであったとしても手をつなぐことをやめられないとしたら、たったひとりの友や恋人に声を限りに伝えたいと思う心があるとしたら、血でつづられた歴史ではなく歌いつがれた歴史があるとすれば…、わたしは母の手のぬくもりを決して忘れてはいけないと思いました。
島津亜矢の母もののうたと言えば「感謝状~母へのメッセージ~」や「かあちゃん」がありますが、わたしの生い立ちからくるのでしょうか、ほんとうのところ彼女に限らず歌謡曲で語られる親子の情愛や絆などステロタイプの家族感や母親像にどこかシックリこないものを感じます。
けれども、今回のユーチューブの歌怪獣チャンネルで島津亜矢が歌った「かあさんの歌」は心に痛く刺さりました。1950年代半ばという時代背景から誕生したこの歌は、作詞・作曲した窪田聡が文学を志して家出した当時、母親から届いた小包の思い出や、戦時中に疎開していた長野県の情景を歌ったとされています。
うたごえ運動を通じて全国の歌声喫茶に広まったほか、劇団わらび座の舞台でも歌われ、またダークダックスやペギー葉山によって取り上げられて大ヒットし、NHKの「みんなのうた」でも放送されてより広い層に知られるようになりました。
わたしは子どものころ、学校に行かずに従妹たちが熱心に読んでいた「平凡」や「明星」の歌謡曲の歌詞集や童謡・唱歌の歌詞集で国語と音楽の勉強をしていました。
ですから、美空ひばりの「悲しき口笛」や「りんご追分」と童謡の「里の秋」や「かあさんの歌」は、シングルマザーの母親の元で子どもなりに自分の家族が友だちの家族とはちがうことを知っていたわたしの心の友でした。
当時の歌声喫茶などで歌われた「かあさんの歌」には、戦後の若者の希望と果てしない夢が隠れていたのでしょうが、集団生活が苦手なわたしにはどこか踏み込むことができないものを感じていました。のちにわたしの人生の「先生」となった寺山修司が「演歌は合唱に向かない」といったように、確かにわたしは美空ひばりや畠山みどりの方に傾倒し、一番身近な社会としての「家族」から逃げ出すことは考えても、歌によって世の中を変えようとする歌声運動の方に向かうことはありませんでした。
しかしながら今、島津亜矢がアカペラで歌う「かあさんの歌」を聴くと、歌にはその歌が生まれた時代を記憶する力があり、敗戦から10年が過ぎ、絶対的な貧困のもとでの生活再建へと歩き始めた頃、労働運動を通して戦後の民主主義を支え、「二度と戦争はしない」という約束を歌によって確かめ合った、当時の働く青年たちの切なくも熱い思いがよみがえってくるようです。
島津亜矢の歌にびっくりさせられるのは、歌怪獣という異名をとるまでになったジャンルを問わない歌唱力と声量はもちろんのこと、オリジナル曲でもカバー曲でもひとつひとつの歌とのめぐり逢いから一気にその歌の生まれる時代背景にたどりつく彼女独特の「歌を詠む力」の豊潤さにあり、その尽きることのない歌心はユーチューブというメディアを得てより花開こうとしているのだと思います。
さて、9月の末にはなんとかなるのではないかと思い、ロームシアター京都で開催予定のコンサートの座席チケットを確保しました。少しの間コンサートから遠ざかっていましたので、とても楽しみです。

島津亜矢『かあさんの歌』

島津亜矢『いのちのバトン』

美空ひばり「悲しき口笛」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です